傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2010-01-01から1年間の記事一覧

みっともない消費

収入が一昨年の二倍になった、と彼は言った。そりゃあ豪気だねえと私は言った。なんかこう、ぴかぴかしたすてきなものをばんばん買ったらいい。彼は苦笑して、いやだよそんなの、と言った。みっともない。 どうしてと私は訊く。お金がいっぱいあるんだよ、あ…

千まで数える

百数えたら出てもいいよ、と彼は言った。ふたりぶんの笑い声が浴室にこだました。彼女は笑いながら数を数え、じゅうぶんにあたたまってから浴槽の湯を抜いた。それから二年が経ち、彼らはその部屋を引き払って、ばらばらの住処に移った。 彼とはもう一緒に住…

彼の二週間

彼は愉快そうな声音になり、覚えてないんだ、と言った。私は以前、彼から自転車をもらった。遠くまで乗れる、丈夫な自転車だ。悪くない製品だよと彼は言った。でも僕は自転車がとても楽しくなって、もっと速く走れるやつを買ったんだ。だからこれはあげる。 …

感情とその器

今なにしてた、というメールが入ったので、返信を書いた。半身浴をしてから、がんがんに冷やしておいた部屋に出て、あまりにいい気持ちなので叫んだところ。ぽぅ! 数分後にメールが来た。ぽぅってなに。私は携帯電話を操作する。マイケル・ジャクソンがやっ…

子どもの日の思い出

これ撒いて、私のまわりに。彼女はそう言って私に小さい四角い紙包みを手渡した。私たちはターミナル駅の真上のビルディングに入った店で待ち合わせをして、軽くおしゃべりするつもりでいた。それなのに彼女は非日常的な飾りけのない黒い服を着てあらわれた…

間がもたないデートと精神的な内臓

私が電話に出るなり、あのさ、彼氏とどんな会話する、と彼は訊いた。彼氏によると私はこたえた。相手によって話題は変わる、友だちと何しゃべってんのって訊くのと同じで、具体的な内容を答えられる質問じゃないね。 めんどくせえ女だなあ、今までの誰かひと…

少女と狭量

私そんな簡単にかわいいなんて言えませんよ、こわくて。今春入社の後輩はそうつぶやいてフリーズドライの中華スープにお湯を注ぎ、持参のおにぎりと並べ、両手をあわせていただきまあすと言った。私も同じポーズで唱和した。今日のランチは原価約200円ですと…

便宜的な憎しみ

十代の終わりのころ、ファミリーレストランでウェイトレスをしていた。深夜になると外国から来た水商売の女性を幾人もはべらせた男の人が彼女たちにごはんを奢るために現れる。彼女たちはウェイトレスをつかまえて率直な英語で訊く。あなたいくつ?中学生?…

退屈が大好き

質問に来ていた後輩をお昼に誘うと、コーヒーが飲めるところがいいですと言う。徒歩十分以内にまともなコーヒーが飲めるところはありません、冷凍庫に入れてある私のコーヒー豆で淹れるのがいちばんましです。私はそうこたえる。ただの真実なのに、彼女はで…

マジョリティの夢

夫とふたりで暮らしはじめて三年になる。夫の名は直樹という。育った家は千葉県君津市にあり、以前は酒屋だった。今はコンビニエンスストアを営んでいる。二階が住居で、両親と兄夫婦と、そのふたりの子が住んでいる。 夫の口癖は「まあいいか」で、私は夫の…

私のうつくしい老後

友だちとバーゲンに行って、いいだけ買い物をした。私たちはそんな日の夜、油っこいものを食べながらビールをぐいぐい飲む。欲望のすべてを肯定する日、と友だちは言う。節約?ノー。ダイエット?ノー! 私たちはそれぞれが買ったサンダルの革細工やワンピー…

手はそんなに滑らない

ちかごろおもしろい仕事した、と訊いてみた。彼女は十メートルばかり歩いてから、先月プルトニウム撮ったよと言った。原子力発電所のプルトニウムって水に沈んでるのね、それを上から撮るっていう仕事。あのつまりそれって爆発したらみんな死ぬよね、と私は…

たったひとつの、冴えないやりかた

どうやって治したんですかと彼女は訊いた。白い顔に宿命的な隈をはりつけ、どこかちぐはぐな印象の服装をした大学生だった。 十年前に卒業した研究室をたずね、恩師への相談ごとを終えてお茶を飲んでいると、もうちょっとここにいてと恩師が言う。会わせたい…

神さまを借りる

じゃんけんで決める、と教官が言った。はあいと私たちはこたえた。私はそのとき大学生で、ゼミのキックオフミーティングに参加していて、発表の順番や雑用の担当を決めていた。 そのあとの飲み会で、でもどうしてですか、と誰かがたずねた。なんでじゃんけん…

ほほえみの所有権

妻がいつもお世話になりまして、と彼は言った。そういうのは慣用句だから、私は「いえいえこちらこそ」とこたえなければならない。彼の妻とは五年間連絡していなかったので、どう考えても「いつもお世話に」はなっていないんだけれども、そんな個別性は慣用…

善人らしい善人

それで彼女はどんな人だったんですか。私はパパイヤのサラダを取りわける彼の手つきを見ながら遠慮がちに訊いた。つまりその見た目とか、そういうのですね、えっと、可愛い人でしたか。 うちの会社のね、彼女より年上の部下に見せたら口をそろえて可愛いって…

新しいから傷つける

友だちの家のPCの動作がおかしいというので見にいった。だいぶ古くて起動に十分もかかる状態だったので、さしあたり彼女が必要としているDVDの再生ができるようにクリーンインストールすることにした。 彼女の仕事用の携帯電話が鳴り、彼女は私にことわって…

読書感想文とタカエちゃんのこと

ひとりで本を読んで終わったら次の本を読んで、それが楽しくてずっとそうしてきたんだけれど、どうしてかこのところひとりで黙って読んでいるとさみしい。さみしいというのはつまり他者を求めているということで、だからいろんなところがうっすらとさみしい…

おれに関する噂

彼は見て見て、と言い、一枚のプリントアウトを差しだした。私はそれを熟読して、すごいねえと言った。人の奥さんに手を出すなんて、意外ともてるんだねえ。あと悪いことしてお金いっぱいもらってるみたいだから今日おごって。 彼はふふふと笑ってその紙を元…

心はどこにあったのか

彼女はそのとき駆けだしの教師で、小学校四年生を担当していた。教室に入っていくと子どもたちのざわめきが急激に収斂し、教卓に立って視線を送るとさらに小さくなった。小さい机、小さい椅子、小さい靴。よく動く不安定なからだ。子どもがいっぱいいるのを…

一級の奴隷

なんでずうっと体育会系だったの、と私は訊いてみた。命令とかされてつらい思いするじゃない、なんか、怒鳴られたりして。 彼はしばらく考え、練習すればうまくなるのって気持ちいいから、とこたえた。 ほかにすることないし、きつくても別にいいやって。い…

屋台を引いて歩く人の話

彼女は駐車場で枕を見つけた。車がタイヤを接して停めるための部分だ。車の下にからだを潜らせて首だけを出す。布団の中のようにあたたかくはないけれども、何もないよりはるかによかった。彼女はなにかにくるまったり狭いところに入りこむのがことのほか好…

再生する人たち

私たちは消耗していた。疲弊してうんざりして早く帰りたかった。でも遠方で仕事をしていて、帰るのは翌日だった。私たちは駅前のファミリーレストランに入った。私は彼女のことが好きではなかった。彼女もたぶんそうだったと思う。私たちは互いの職掌の上で…

彼は何を買っているんだろう

友だちの赤ちゃんを見せてもらいに家に行くと、これから姉も来るんですって、と友だちが言う。一緒にごはん食べてってよ、うちの姉おもしろいから、ぜったい気に入るよ。 赤ちゃんは抱いたまま立っているとご機嫌で、座るとぐずりはじめる。それで私は気の利…

真夜中の接近遭遇

隣の部屋から乱痴気騒ぎの音が聞こえる。彼は耳に詰めこんでいた耳栓を引っぱりだした。声と音が立体的にふくらんで彼にまとわりついた。度を超えた騒音の前で、耳栓は無力だ。ノイズキャンセリングヘッドホンは人の声に利くんだろうか。試してみようとして…

罪に至る甘え

ばれた、と彼は言った。なにが、と私は訊いた。実は半年ばかり浮気しててさあ、と彼は言った。私は適当に相槌をうち、エスプレッソのエキストラショットを入れたカフェラテをのみながら彼の話を聞いた。 彼には一年ばかりつきあっている恋人がおり、その人と…

私がこの部屋のなかで腐乱してゆくことについて

腐乱死体になるのが怖いと彼女は言う。離婚を考えていると話して、そこからほとんどひといきに、でも将来孤独に死んで誰にも発見されずに部屋で腐るのがいやだと言う。 私はその話にいまひとつ乗れずに、腐乱したってまあいいじゃないと言う。だって死んだら…

感情をふくむ化合物

きつね目の男っていたでしょう、と彼女は言った。みんながちょっと視線を泳がせた。ああ、昔の事件のね、とひとりが言った。そう、あの似顔絵の、と彼女は言う。 私あれがすごく怖いの、どうしてかわからないんだけど、今でもときどきテレビにあの似顔絵が出…

食べられないきれいなもの

一冊のノートを買った。ちょっと上等な紙を使ったきれいなノートだ。表紙はあざやかな赤を基調としたデザインで、八つになる女の子向けに作られた商品ではないけれども、私は彼女の親ではないから、年齢にそぐわないものをあげてもかまわないと思った。 お誕…

少し忘れた

彼女の息子は私と目があってもお母さんのスカートの後ろに隠れようとしなくなった。初対面から一時間、それなりに認知されたようだ。彼女はそうねもう大丈夫かな、ちょっとだけ見ててもらってもいい、と言った。もちろんと私はこたえた。 五歳になったばかり…