きつね目の男っていたでしょう、と彼女は言った。みんながちょっと視線を泳がせた。ああ、昔の事件のね、とひとりが言った。そう、あの似顔絵の、と彼女は言う。
私あれがすごく怖いの、どうしてかわからないんだけど、今でもときどきテレビにあの似顔絵が出たり、「きつね目の男」ということばを聞いたりするとぞっとする、今も、言っててちょっと嫌、でもそれがどうしてか自分ではよくわからない。
ひとりが唐突に、あなた今いくつ、と訊いた。三十三と彼女はこたえる。彼は人差し指でこめかみを押しながら(それは彼の癖だ。つまみをひねって調整しているんだよ、と言っていた)、グリコ森永事件のときには小学校低学年だねと念をおす。彼女は何度かうなずく。
ところで僕の子どものころのいちばん強い記憶は十歳のときに中津川の祖父母のところに遊びに行ったことなんだ、と彼は言う。
すごく楽しかった、かぶと虫の来る木の肌や急激に夜に近づく夕方の空気や貸してもらった従兄弟の古い自転車のハンドルの感触をひとつひとつ覚えている。でもそれっておかしな話なんだよ、だってそこには毎年行っていたし、十歳のときに特別なことが起きたわけじゃないから。いつもの年と同じ、何度も味わっている楽しさだったはずなんだ。でもそれの五日間の記憶は、ほかの記憶とはまったく違う特別な幸福感に満ちている。
つまり、と彼女が訊く。つまり、と彼は言う。たぶんそこで生まれてはじめて自然の美しさみたいなものが僕の内面に入ってきたんだと思う。それから、中津川の従兄弟とはいつか疎遠になるかもしれないこと、祖父母は僕が大人になることには死んでしまうかもしれないことなんかを、漠然と感じたんだと思う。つまりそれが夏になれば永遠に繰り返される景色ではないということを。そう考えるとあの記憶だけが特別に美しいことに納得がいく。
なるほどと彼女は言う。彼はもう一度、つまり、と言う。
つまりあなたにとっての「きつね目の男」の記憶にもそういうことが起きてるんじゃないかと思うんだ。まだ出来事と感覚と感情をわけて記憶できない子どもがいろんな要素をいっぺんに味わって化合物にしたみたいなことが起きたんじゃないかって、だから大人の感情とはちがう特別な感覚が生まれたんじゃないかって。それだから、そのときなにが怖かったのか考えてみるのもいいと思うよ。
もしそうなら、と彼女は言う。そのとき怖かったのはね、すごく怖かったのは、世の中には徹底的にわからない人がいて、しかも悪いことをするということ、それを警察みたいなすごい力を持っている人たちが一生懸命追いかけてもつかまらないってこと。
私たぶんそのときまでそんなものが存在すると思っていなかったのね、子どもは秩序を信じているし、正義は勝つと思っている、子どもは、大人になればなんでも理解できると思っている、でもそうじゃない、全然そうじゃないんだって思って、そのことが私とても怖かった。