傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

千まで数える

百数えたら出てもいいよ、と彼は言った。ふたりぶんの笑い声が浴室にこだました。彼女は笑いながら数を数え、じゅうぶんにあたたまってから浴槽の湯を抜いた。それから二年が経ち、彼らはその部屋を引き払って、ばらばらの住処に移った。
彼とはもう一緒に住んでいないのと彼女は言い、どうしてって訊くのも愚かしいなあと私は思った。それで、何かきっかけでもあったのと訊いた。口にしてからやっぱりこれも野暮だなと思った。彼女は首をかしげてほほえみ、ユリちゃんの話をしてもいい、と言った。
ユリちゃんは彼女の家の裏に住んでいた。庭の木立のいちばん奥の梅の木をぐるりと回るとユリちゃんの家の庭に出る。彼女は幼稚園に通っていて、ユリちゃんは小学校を出る前だった。
ユリちゃんは真っ黒い髪を肩口で切りそろえたきれいな顔だちの子どもで、黄色いインコを飼っていた。彼女とユリちゃんは庭のハコベを摘んでインコにあげ、オオバコで飲めないジュースを作り、ユリちゃんの持っているマンガを読んで、五時の鐘が鳴る前に別れた。彼女の母親がそうするように言い聞かせていたのだ。五時までには必ず帰ってくること。そうしないとおうちに入れてあげませんよ。
その日はユリちゃんの部屋の古い三面鏡の中身を見せてもらっていた。おしろいの入ったきれいな箱を開けるとピンクのサテンのリボンのついたパフがあって、顔を近づけるとベビーパウダーみたいな匂いがした。彼女はうっとりとそれを眺め、小さい指をリボンにそっとはさみ、また箱に置いて見つめた。しばらくそうしていて時計に目をやると、五時少し前だった。彼女は少し慌てて、帰るねと告げた。
かえっちゃだめ。ユリちゃんが言った。怖い顔をしていた。ユリちゃんは手をつかまなくても、立ちふさがらなくても、だめと言えば彼女が帰れないことを知っていた。かえっちゃだめ。
千数えたら、帰ってもいいよ。ユリちゃんはそう言い、彼女はしゃがみこんで泣いた。彼女はまだそんなにたくさんの数を数えることができなかった。いち、に、さん、し、ご。じゅういち、じゅうに、−−じゅうに。五時の鐘の音が聞こえる。ユリちゃんは彼女を見ている。
それで、と私は訊いた。たださびしかっただけなんだと思う、と彼女は言った。その日に何かあって、心細かったのかもしれない。私を怖がらせるつもりじゃなかったと思う、もっとこっち見てって言いたかっただけなんだと思う。そうかもしれないねと私はこたえた。でも怖かったんでしょう。彼女はゆっくりとうなずく。
怖かった。よく知っている人が突然、知らない人になるようで。浴槽にお湯をためても私がすぐ出てしまうから彼はよくふざけて「百まで数えて」って言った。小さい子に言うみたいに。私、それが好きだった。でもそれはなくなった。ここしばらく彼と私は、しっくりきていなかった。そうして彼は久しぶりにお風呂に入っている私のところに来て、千まで数えたら、出てもいいよ、って言った。
それから彼女は何度か息を吸い、私、ユリちゃんの話、だいぶ前に彼にした、と言った。「かえっちゃだめ」のあと私はしばらく庭に出なくなって、ユリちゃんは中学生になって、私たちはもう遊ばなくなった。
彼がユリちゃんを真似てみせたことに、悪意があると断定することはできない。でもそこには明確な屈折がある。私がそう言うと、彼の悪意をおそれたのではないし、屈折を疎んじたのでもない、と彼女は話す。私は彼の、それにユリちゃんの、急激に発熱するさびしさをもてあましてしまったんだと思う。
熱を出したときには気をつけるよ、と私は言った。彼女は目だけでその内容を問うた。この人はなぜだかそういうことができる。
私も彼やユリちゃんとおんなじで、ときどきさびしさが熱を出す、でもそのときに「千まで数えて」と言えば数えてくれる人がいたって、言ってはいけない、それをしてもさびしさの熱は下がらないから。私がそう言うと彼女はひっそりと笑い、私が数えて熱が下がるならどんなにかよかったのに、とつぶやいた。私はもう千よりずっとたくさんの数を数えることができるのに。


for 「ユリちゃん」イチニクス遊覧日記

*本エントリでの改変はid kasawoの創作です。

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2010/07/27 追記

「イチニクス遊覧日記」にお返事エントリを掲載していただきました。

http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20100726/p2

とてもうれしいです。