妻がいつもお世話になりまして、と彼は言った。そういうのは慣用句だから、私は「いえいえこちらこそ」とこたえなければならない。彼の妻とは五年間連絡していなかったので、どう考えても「いつもお世話に」はなっていないんだけれども、そんな個別性は慣用句には反映されない。相手がそのような薄い関係の知人の夫であって、二度と会わない確率のほうが高いからこそ、慣用句が役に立つ。
労力をかけたくない関係ではあまり頭を使わなくても会話ができるようにさまざまな決まり文句が用意されていて、私たちは先人の知恵に感謝しながら日々それを使う。そういうのって大人っぽいなあと私は思う。
彼は横にいる妻に視線を送ってから儀礼的なほほえみをうかべ、どうもこの人は見ての通り無愛想でして、と言った。でも、そんなでも一緒に遊びに行く友だちがいるみたいで、僕としては少し安心しました。
「いえ、あんまり友だちじゃないです。なにぶん五年ぶりで」とか言ったらこの上級慣用句遣いはどんな顔をするかしらと私は思い、でももちろんそんなことは口にせず、彼女のそういうところ私は好きですよと言う。
そういうところが好きなのはほんとうだ。彼女はたいてい仏頂面で、心から可笑しいときと何かを突き放したいときにだけ笑う。大人になってもそうしていられるのは自信と実力のたまもので、私なんかはとりあえず笑っておけば無難だからそうしておこうと思っているふしがある。荒れた気分のときには、とりあえず従順そうににこにこしてれば満足なんだろ、ほれ、くれてやる、けっ。と思っている。そんなのは良くないことだ。笑顔は道ばたの小うるさい野良犬を黙らせるために投げる残飯ではない。
個人的にはいつも笑っているよりずっと信頼感を持ちます、と私は言う。はじめて会った知人の夫に言うことではないから黙っているけれども、私はずっと笑顔の人を見るといやだと思う。
感情がフラットなとき、人の表情は動かない。あるいは激したときや制御しきれない量のデータが流れ込んできたときにも動かない。それはおおかた無表情、あるいは仏頂面だ。でも人は訓練で表情を固定させることができる。いつも愛想よくする訓練を積んだ人は、いちばん恐ろしいときにも、ほほえんでいる。私はそれがいやだ。デフォルトの表情が微笑だなんて忌まわしいことだ。表情の所有権をどこかの誰かにあけわたしているということだからだ。
私は嬉しいとき、楽しいとき、それからだれかに気に入ってもらいたいときにだけ笑いたい。私のほほえみは私のものだ。私にはそれを自分のために使う権利がある。人にあげる権利もある。だれにプレゼントするかは私が決める。それをとても大切なことだと思っているので、笑顔の所有権を持っていないような人が怖い。
彼女の夫は、まあ僕はもうちょっと愛想良くしてくれてもいいのにって思いますけどね、と言う。私は彼女から「うちの夫のいいところは私がふつうにしてても、つまり無表情でも容赦なくかわいいかわいいって言うところ」と聞いていたので、可笑しくてしかたなかった。