傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼の二週間

彼は愉快そうな声音になり、覚えてないんだ、と言った。私は以前、彼から自転車をもらった。遠くまで乗れる、丈夫な自転車だ。悪くない製品だよと彼は言った。でも僕は自転車がとても楽しくなって、もっと速く走れるやつを買ったんだ。だからこれはあげる。
彼はその自転車に乗って私の家の最寄りの駅まで来て、電車で帰った。それからしばらく話をする機会がなく、一年ぶりに電話がかかってきたので、あのときはびっくりしたよと私は言った。だって相当な距離だものね、自力で走るなんてどうかしてると思った。そうしたら彼はちょっと笑ったような声で、覚えていないと言う。
私が適切なことばを見つけられないでいると、その日をふくむ二週間が僕の人生から抜け落ちたんだ、と彼は言った。今年の夏休みは海に行くんだというような口調で。
その夜、彼が携帯電話を見ると、「今日」と認識していた日から二週間が経っていた。彼は外してあった腕時計を手にとり、テレビをつけ、もう一度携帯電話を開き、それらのすべてに同じ日付が記されていることを確認した。七月二十三日、と彼は口にしてみた。七月二十三日二十二時八分。彼は自分のせりふを耳から頭の中に入れ、それが隅々までしみこむのを待った。彼のかたちのいい、髪をごく短く刈りこんだ頭は、時間をかけてそれを吸いこんだ。OK、今日は七月二十三日だ。
彼はPCを起動し、新しい順にファイルを開く。作った覚えはないが、内容に問題はない。なかなかよくできてる、と彼は思う。彼はそれまで良い評価を受けてもあまりそのことを実感できずにいたのに、突然思った。僕はこの仕事に向いている。
彼は携帯電話を開き、親しくしている後輩に電話をかける。後輩はいつもと同じようにごく陽気な調子で「あざっす」と言う。彼は適当な理由をつけて業務の進捗に異常がないことを確かめる。
彼は居室を見渡す。いつも買っている雑誌が床に落ちていて、好きでよく焚いているお香のにおいがする(香りのするものが好きだなんて女の子みたい、と言われたことを、彼はひどく鮮やかに思い出す)。彼はクローゼットを開く。手前に積み上げてあるシャツを何枚かめくる。彼のたたみ方と恋人のたたみ方の二通りのかたち。異常なし、と彼は思う。
クローゼットの扉の内側には鏡が貼ってある。そこにはいくぶん華奢な体格の、よくデザインされた眼鏡をかけ古いTシャツを着た、年をとっているとはいえないけれど無条件に若いわけでもない男が映っている。やあ、修行僧、と彼は呼びかける。物静かで規則正しくハードワークをこなし、酒が飲めない体質で、時間ができると自転車で延々と走っている彼についたあだ名だ。やあ、修行は順調?そろそろ悟れそう?
彼は少し笑い、OK、と思う。あまりできは良くないにせよ、即興で笑うための材料をつくることができるし、それほど不自然でない笑いかたもできる。異常なし。たぶん。
彼はふたたび携帯電話を開き、履歴を見る。仕事の関係者との電話が何件か。メールは恋人と毎日一、二往復ずつ。内容はごく当たり前のものだ。週末だけメールがなく、前日に待ち合わせのやりとりがあるので、一緒にいたのだろうと思う。いつも通りだ。
そのほかには友だち二人とのメールがあった。一人に古い自転車をあげる約束をして、届けたらしい。その次の週、別の友だちが開いた飲み会に出たらしい。いずれも記憶にある限りは予定していなかったことだけれど、古い自転車は誰かにあげようと思っていたし、飲み会のほうの友人とはときどき会う。異常なし。おそらく。
それで、と私は訊いた。それだけ、と彼はこたえた。僕の記憶以外に異変はなかった。僕の二週間は今もきれいに失われたままだよ。携帯の中にだけ残っている。いつも通りに仕事をしたこと、いつも通りに彼女と週末を過ごしたこと、大学のときの友だちと夜中までしゃべってたこと、あなたに自転車をあげたことがね。
私は彼に見えないことを忘れて何度か頷き、それから電話を持ち直して、そのできごとがあってから全然変わってないのと訊いてみる。彼は少し考え、週末に自分宛のメールを書く習慣がついた、とこたえた。また忘れちゃったときのためにと思って。ごく簡単なものだよ、たとえば今週なら、仕事問題なし、木曜に提案書通過、日曜に多摩川サイクリングロード、みたいな感じ。それで最後にいつもこう書いてる。あのときのことはまだ思い出していない。


for 「私の二週間」イチニクス遊覧日記