傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

退屈が大好き

質問に来ていた後輩をお昼に誘うと、コーヒーが飲めるところがいいですと言う。徒歩十分以内にまともなコーヒーが飲めるところはありません、冷凍庫に入れてある私のコーヒー豆で淹れるのがいちばんましです。私はそうこたえる。ただの真実なのに、彼女はできのいい冗談を聞いたみたいに気前よく笑った。
私たちはコンビニエンスストアで食べ物を買ってオフィスに戻った。私は熱くて少し濃いコーヒーがカップ一杯半ぶんあれば、六割がた幸せになれる。私は彼女の新しい生活について訊いた。彼女は就職と同時に一人住まいをはじめたと聞いている。
順調ですと彼女はこたえ、先輩は家計簿つけてますかと言った。おおまかに、と私はこたえた。私が自分の家計簿のつけかたを説明すると彼女はうなずき、それくらいのほうがいいかもしれないですねと言う。彼女は一円単位で家計を記録しているという。それが負担になっていないならとてもいいことだと私は思う。けれども彼女は浮かない顔で言う。
さっき仕事のこと訊いたじゃないですか。私きっとあれもタスクリストにしてチェックしながら進めるんです。それっていいことだってきっと先輩は言いますよね。でも私、えっと、たとえばぬいぐるみが好きでいっぱい持ってるんですけど、どれをいつ洗ってあげたかメモしてあって、定期的にきれいにしてるんです。掃除とか洗濯ももちろん。自分ではちょっといやです、その、なんか、全部、管理してる感じが。
たしかに少し度を過ぎているかもしれないけれど、それで困っているわけでもないなら、悪くないと思う。私はそう言い、コーヒーのおかわりをすすめる。彼女は遠慮せずにのむ。あの、先輩もそういうタイプだと思うんで、訊くんですけど、うっかりお金遣っちゃってお給料日まで困るとか、そういうの、ないですよね。私はうなずく。
そのことについてどう思いますかと彼女は言う。私は少し考え、OKだと思います、とこたえる。彼女がまだ黙って私を見つめているので、ことばを足す。ほんとうのことを言うと少しつまらないですよ。だって後先忘れるような強い欲望が今の私にはないってことですから。お金のことだけじゃなくって、私、徹夜とかしないんです、睡眠を削ってやりたいことがないんですよ。それはもしかするとすごくつまらないことかもしれないと思います。
そうですよねと、勢いこんで彼女は言う。私つまんないです、こんなにきちきちに自分を律して、私には、身を持ち崩すような情熱がないんです、今まで、なんでも計画通りでした、もちろん努力しました、でもほんとうはみんな、努力が無効になるようなことを望んでしまうんじゃないですか、あれがほしいとかこれになりたいとか、無理っぽいことを望むものじゃないんですか、私にはそういうのないんです、私はいつも身の丈を知っていて、それがすごく、いや。
どうしてと私は訊く。彼女はじっくりと私を見つめて言う。退屈だからです。こんなにも人生を管理して、私、退屈です、まだあと何十年も残ってるのに。
人が狂乱を欲するのは退屈だからだと言った作家がいますよと私は言う。だから退屈に耐えられないならそのうち管理できない過剰な欲望を抱くんじゃないかしら、そうねえ、激しい恋とかどうですか、せっかく若いんだし。
私がそう提案すると彼女は我にかえったように笑って、ねえ先輩は退屈じゃないんですかとかわいらしい顔で訊いた。退屈ですと私はこたえた。私はいま自分の欲望に振りまわされていなくって、家計簿もつけて、わりに幸福で、だから退屈です、そして私は退屈が好き。
彼女は目をくるりと回して、飲み会のときとか聞かせてくださいと言う。何を問うと、先輩が退屈好きなのはそうじゃないのに懲りちゃったからでしょう、すごい劇的な話があるんじゃないですかと言う。私は苦笑しておもしろい話なんかないですよと言い、コーヒーの残りをのむ。