傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

たったひとつの、冴えないやりかた

どうやって治したんですかと彼女は訊いた。白い顔に宿命的な隈をはりつけ、どこかちぐはぐな印象の服装をした大学生だった。
十年前に卒業した研究室をたずね、恩師への相談ごとを終えてお茶を飲んでいると、もうちょっとここにいてと恩師が言う。会わせたいゼミ生がいてね、話したらきっと役に立つ先輩が来るからおいでって言ってあって、だから待ってて。
私と同じ業種を希望している学生の進路相談だろうと思っていると、顔色の悪い女の子がやってきた。自分のからだの半径一メートルを常に走査しているみたいな女の子だなと私は思った。通りいっぺんの自己紹介と無難な世間話を済ませると、恩師が学生のほうを向いて言う。
ほらあの、評価されるとだめになっちゃうっていう話、どうしてかわからないけど何か区切りになることをやり遂げたりするとそのあと具合悪くなっちゃうって前に言ってたよね、あの話がしたくてさ、俺ちょっと調べたんだよ昔、そういう人って他にもいるんだ、この先輩はね学生のとき褒められるとそのあと異常にしんどそうで不審だった、今はこんなに図々しいけど十年前はそんなふうだった、ふたりは似てると俺は思う、どう?
彼はそれから私のほうを向いて、ねえあんなに何にでもびくびくしてたのに今じゃこんなに図々しくなっちゃって、俺は嬉しいけどあんまり図太くなっちゃったのはちょっと惜しい、あのころあなたは可憐だった、と言った。
三十二にもなって可憐でいられませんと私はこたえた。嘘だあ俺の奥さんは今年四十一だけどかわいい、ちょうかわいい、野に咲く花のようだと彼は言った。成功恐怖の話ですねと私は確認した。そうそれそれ、心理学の人に訊いたら教えてくれたよ、と彼はこたえた。
俺なんて小さいときから頭いい頭いいって褒められて、それでまた調子に乗ってぐんぐん育っちゃったんだけど、まあ背は育たなかったけど、えっと、世の中にはそうじゃない人もいるわけだ、なにかを成し遂げると損するとかひどい目に遭うとか、できない人間であってほしいという望みを押しつけられるとか、そういうのが原因で。やだね。誰かにそんな経験をさせたやつはみんな友だちに嫌われればいいのに。まあとにかく、そういう目に遭った人の一部は、ものごとを成し遂げることが恐ろしくなる。そんなに騒ぐような成功じゃなくっても、ただの順当な成長であってもね。しまいには故意にだかそうじゃないんだか、できるはずのことを失敗するようになる。失敗するとなんだかほっとする。そして人生はどんどん悪い方向に向かっていく。これが成功恐怖。OK?
無駄が多いわりにわかりやすい説明を受けて、彼女はかくかくとうなずいた。もともと顔色がよくなかったのにさらに青ざめて、あのうすみません、私たぶんそれです、なんか、すいません、と繰りかえし、長すぎるシャツの裾を握ったり離したりしていた。
彼女はそうして私に訊いた。どうやって治したんですか。
治ったのかな、治るの定義にもよるけど、とりあえず十年前よりはずっとましになりました、と私は言った。どうやって治したんですかと彼女は言った。繰りかえしていることに、たぶん気づいていない。
ごめんなさいと私は言った。たぶんその種の問題に冴えた解決方法はないんです。泥くさいやりかたしかないの。つまりそれは少しずつ改善を積み重ねていくってことなんだけどね。つらくてもものごとを成し遂げる行動をやめないでいるしかない。愚直に。地道に。そして目標を達成してもひどい目に遭うことはないと学習するしかないの。たぶんいくら学習しても苦痛はなくならない。それでも、それしか方法はない。
私はいったんことばを切って彼女の中に自分のせりふが浸透するのを待つ。もちろんそれは私には見えない。何秒かだけそうして、私はまた口をひらく。
私たちのなかにはそれが装置として埋めこまれている。今のは有名な作家の言い回しを借りたんだけど、その装置と私たちは既に一体化していて取り外すことができないの。私たちはその上に自分を構成してきたのだから、それはもはや私たち自身なの。どこかにいる悪役が私たちに石を投げているんじゃない。成功を恐怖するのは私、認められることを忌避するのは私、ただ能力がなくてできないんだと思いたがっているのは私自身。
私は彼女を見る。彼女は私を見る。表情がない。私は続ける。
だから私たちは少しずつ私たちの装置のもたらす苦痛に慣れていくしかない。つまり少しずつものごとを成し遂げることでもたらされる苦痛に慣れるしかない。それが私たちに許された唯一の方法なんだと思う。そうしなければ私たちは何も感じないで死ぬことを最上の価値とするような人生を送るしかない。冴えたやりかたを知らなくてごめんなさい。
彼女は息を吸い、息を吐き、息を吸い、どうも、と言った。はい、と私は言った。恩師が彼女に、これこの人の手土産なんだけど一個あげる賞味期限は半月後、と言ってお菓子を渡し、それからひらひらと手を振った。彼女は水の中にいるみたいな動きでからだの向きを変えて研究室を出ていった。
私もそろそろ失礼しますと言うと、彼は通学路の途中でクラスの友だちと別れる小学生みたいな口調で、うん、またね、と言った。