傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

真夜中の接近遭遇

隣の部屋から乱痴気騒ぎの音が聞こえる。彼は耳に詰めこんでいた耳栓を引っぱりだした。声と音が立体的にふくらんで彼にまとわりついた。度を超えた騒音の前で、耳栓は無力だ。ノイズキャンセリングヘッドホンは人の声に利くんだろうか。試してみようとして彼はふと我に返る。なんで俺は夜中にパンツ一丁でこんなごついヘッドホンを装着しようとしているのか。
明日は早くから出張だというのに、と彼は思った。騒音で眠りに就くまで時間がかかったこと、ようやく眠ったのにまた起こされたことによる苛だちが、彼の頭を奇妙に冴えさせていた。彼は隣家とのあいだの壁を蹴ることを想像した。あいつらそんなことで静かになるかな。ならないだろうな。でも蹴りたい。蹴ればすっきりするような気がする。
彼は自分でも驚くほど無駄のない動作で壁を蹴る。
声と音にはなんの変化もない。足は痛いというより熱い。すっきりなんか全然しなかった。でも足は無自覚のうちに動いてまた壁を蹴った。さっきよりずっと強い痛みがあった。頭のなかでかすかに金属的な音がした。唐突に強烈にいい気持ちになった。舌の根本からじわりと甘いような味が湧いた。すっきりなんか全然しなかった。急かされているかのようだった。頭の中の音が大きくなり、彼はオートマティックな動作で足を、
いけない、と彼は思った。このまま蹴り続けたらきっとその行為そのものに飲みこまれて止まらなくなってしまう。暴力にはそういう側面がある。俺はそのことを知っている。たいした人間ではないし、まだそんなに長く生きていないけれど、自分の頭でちゃんとものを考えようとしてきた。だから暴力がどういう性質を持っていて、ときにどんなに魅力的に見えるかを知っている。
彼は意識して肺の全部から搾りとるように息を吐き、その波をやりすごす。足が痛いと思って、それをゆっくりと口から出す。足が痛い。
隣の声は不規則にやや小さくなったり爆発的に大きくなったりする。コマーシャルで聞いたことのある曲ががんがんにかかっている。いったい何人いるんだ、と彼は思った。
声がどっと大きくなった。誰かが尋常でないハイテンションでなにかを叫んでいる。彼は隣のインタフォンを鳴らすところを想像した。こんばんは。隣の者です。今が何時だかおわかりでしょうか。非常に、非常に、非常識に、近所迷惑です。あなたがたがそのように振るまい続けるのなら、私はこの呼び鈴を押します。何度でも押します。朝まで押します。あなたがたが隣人に対してしているのはそのようなおこないです。あなたがたが自分たち以外の存在を微塵も想定していなかったとしても。
彼はそのせりふを頭のなかでしっかりとリハーサルした。彼らは扉の向こうで彼のことばに耳を澄ませていた。彼はインタフォンに向かって諄々と語り、やがて彼らは扉をひらいた。彼らは彼よりいくぶん若かった。粗暴な顔つきだと彼は思った。玄関先にはごみ袋とたくさんの靴があった。なかには高価そうなものもあるのに全部が薄汚れていて、三分の一は横になるかひっくり返るかしていた。酒と油っぽい食べものの匂いがした。彼らのひとりが無表情のまま金属バットをふりあげ、彼の頭をよく晴れた夏の日の海辺のすいかのように割った。
彼はそこまで想像して、かまわない、と思った。ヒロイックな気分だった。それでも俺は正義を遂行する。
そう考えて靴を履こうとしたところで彼は自分がほとんどはだかであることに気づいた。玄関先の鏡で彼はそれを見た。可笑しかった。俺は少しおかしい、と彼は思った。疲れて焦って苛ついて寝不足で夜中でひとりで、だから少しおかしくなっている。でも少しだけだ。どうってことはない。
彼は携帯電話を手にとって文字を打つ。こんな夜中に隣が騒いでてすげーむかつく。送信。そしてシャワーを浴びる。
彼女から返信が届く。それはむかつくね。あした管理会社に電話しないとね。そうする。ありがとう。おやすみ。彼はその三語を送信する。それからあたりを見わたす。いつもの自分の部屋だ。取りこんだ洗濯物のちいさな山がある。彼はなんとなしにそれを両手で抱えこむ。乾いた清潔な繊維のにおいがする。彼はそこからシーツを取りだす。四隅をマットレスにたくしこんで表面の皺をてのひらでざっと伸ばし床に落ちていた夏用の布団をさばいてその上に載せる。シーツの色は薄い灰色。彼はそれを見て頭のなかで繰りかえす。シーツの色は灰色。
隣は相変わらずうるさかった。でももう眠たかった。彼はベッドにもぐりこみながら、どうして俺はさっきまであんなに盛りあがっていたんだろうと思った。