傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2010-01-01から1年間の記事一覧

速度と孤独

少人数の遠慮のないミーティングだった。私たちは考え、話し、聞き、訊いた。ホワイトボードの前にひどく耳の良い人がいて、四色のペンを駆使して議論の骨子をきれいに書き留めた。 ひとりが口をひらくと、私たちは黙った。誰もその人の言うことを理解できな…

カフカの日

打ちあわせのために長い地下道を抜けて電車に乗り、小さなビルディングの下に来た。着いたら電話してくださいというMさんのメールを確認してからコールボタンを押すと女の人が出た。はあ?何いってるんですか?誰ですかあなた。私は謝罪して電話を切り、アド…

幸福の貧困なイメージ

今日は何してた、と訊くと、だいぶ寝坊した、と彼女はこたえた。 それで家の、彼の家の近所に食事をとりに行って、うん、あの人あったかくなると料理しなくなるのね、それで今あの人の冷蔵庫は空なの、そして私たちはとても大きなサンドイッチを食べてコーヒ…

パターンと欠落または欲望

だめになっちゃった、と彼女は言った。そうかあと私はこたえた。浮気されててさあ、と彼女は続ける。また、と私は訊く。彼女は、私が何をしたっていうのよ、少なくとも今回は私なにも悪いことしてない、と言った。そして私の発言をさえぎるように、三角形の…

音楽を好きになりたかった

音楽をはげしく求めたことがない。音楽に対して、私はいつも受動的だった。ときどき周囲の誰かが音楽を選んで、カセットテープや、MDや、CD-Rに入れて、私にくれた。私はそこから気持ちよく聴けるものを選んでTSUTAYAに行き、同じ人が出しているものを借りた…

泡のような関係を

コーヒーを注文したところでメールが来た。旅行先で知りあった人からだった。私はメール書いていい、と訊いてから、その場で返信を出した。北海道いいねー。私もまた旅行したいと思っています。今度は海外がいいな。関東に来るときは、よかったら連絡してく…

みっともなくうろたえたい

最近彼女ができまして、と彼は言った。私はおめでとうと言って拍手をした。 私は他人が誰かと親密になった話を聞くと高揚し、その人の肩をばんばんたたいて、「いいぞもっとやれ」と言いたくなる。祝福の気持ちにしては盛りあがりすぎなので、他人の私生活に…

天袋の中の故郷

うちの息子ちょっと疲れてるみたいなの、疲れると模型を出すからすぐわかるの、と彼女は言った。 彼女の息子は大学生だ。礼儀正しくて見栄えがよく、そつのない近ごろの若者という印象を与える。母親である彼女は、あの子ろくに家にいなくてつまんないわあ、…

世間知らずはだれ

おとうさんとけんかした、と彼女が言うので、私は遠慮なく笑った。睫を一本残らずきっちりカールさせて凶器みたいなハイヒールシューズを履いているのに、まるっきり小学生みたいだ。 彼女は父親と同業の、別の会社に勤めていた。彼女はそこで、「不正とは言…

物語的文法の再現

ちかごろ食器が次々に死ぬの、と彼女は言った。昨日はコーヒーカップの取っ手が取れた。先週は流し台に置いたグラスが割れた。その前はパスタやカレーに使っている大皿が欠けた。 寿命かなと私は言った。ひとり暮らしをはじめた頃に揃えたんなら、そろそろ寿…

小さいことを考える

今日は何してた、と彼女が訊くので、久しぶりに会ったのに「近ごろは何してた」じゃないのか、ちょっと変わってるな、と思って、でもこたえた。 昨夜のうちに洗っておいた洗濯物を脱水して干してから家を出て、そう、冬物をちょっとずつ洗ってるの、駅で転ん…

犬のTのこと

「犬のT」というあだ名の友だちがいる。Tは姓だ。 Tは仕事の行き帰りのコンビニエンスストアでサンドイッチと缶コーヒーを(あるいはおにぎりとおでんを、または肉まんとお茶を)買い、歩きながらそれを食べる。Tは次のコンビニエンスストアのごみ箱で食べた…

愛の条件

何人かでお酒をのんでいて、誰かが「今より太ったら別れるって言われちゃった」と言った。みんながそれに対する感想を述べた。おおかたは「条件つきの愛情はきつい」という内容だった。 すべての愛情は条件つきだよとつぶやく声が聞こえた。すぐ横にいた私が…

美しくないものが美しくなろうとすること

やっぱりこれちょっと裾が短い、と彼女は言った。私のも短いけど買うよ、レギンスが定番になってほんとうによかったなあ、と私は言った。私たちはそれぞれ、試着室に戻って着がえた。 エスカレータに乗って建物を下り、ずらりと並んだマニキュアを見ながら彼…

姿勢と感情

そのころの私には、つま先から頭のてっぺんまでたちの悪い疲労がひたひたに満ちていた。さまざまな種類の、不可逆的に関与しあった、発酵してなにかもっと邪悪なものになりかけた疲労だ。疲労と私のあいだには境目がなく、疲労が私の実体であるように思えた…

個人的でない愛

長期出張から帰ってきた人に向こうでの生活を訊くと、合宿っぽかったよと言う。一軒家をスタッフ三人でシェアして、一緒に暮らしていたのだそうだ。 部屋はひとりひとつだけれども、ほかは共有だから、朝晩顔を合わせる。もちろん仕事もおおむね一緒にやって…

機械としてあつかって

コンビニエンスストアに入ったら、おばあさんがレジの人に話しかけていた。何時までこうしてお勤めになるのかしら。こんなに遅くまでねえ。感心なことねえ。 私たちはおばあさんの隣のレジで買い物を済ませて外に出た。さっきの店員さん、困ってたねえ、と彼…

世界に対する負債の感覚

高校生のとき、電車に乗っていて、後ろから頭をたたかれた。そんなに強い力ではなかった。驚いて何秒か動けなかった。振りかえると男性がいて、私がとにかく悪いという意味のことをまくしたて、おそらくはそれで私の頭に接触した鞄を何度か私の目の前に突き…

平安時代のようなかなしみ

最近彼女と別れまして、と彼は言った。私は、まあまあ、飲みますか、とワインのボトルを差しだし、このせりふはちょっとおじさんっぽいな、と思った。それから彼の話を聞き、さらにおじさん的に、それも人生だよ、などと言った。 私の考えるおじさん的な反応…

作文が終わらない

七つの女の子と話をしていたら、作文が終わらなくて困っているという。彼女は小さい子にしては要領よくしゃべるんだけれども、なにしろ七歳は七歳なので、話がくどい。しかもしょっちゅう脱線する。最後まで聞いて推測するに、どうやら何を書いて何を省くか…

彼は何をしゃべっているんだろう

彼女は結婚して一年になる。ちかごろの生活はどう、と訊くと、ちょっとしたトラブルをおもしろおかしく話してくれてから、そうそう、とつけ加えた。そういえばね、彼、ひとりでしゃべるの。しかもシャワーを浴びてるときに。お風呂で鼻歌を歌うのはわかるん…

価値を感じることができない

そのとき私は十七歳で、スーパーマーケットのレジ打ちをしていた。その店には万引きを示す暗号があって、「まるいち」というのだった。それを伝言ゲーム式に伝えるのだ。私がアルバイトをしているあいだにその暗号を聞いたのは一度きりだった。私はなんだか…

十五歳までにしておくべきこと

私が中学生だったころ、誰かとつきあっている女の子は、ときどき自転車に乗らずに学校に来ていた。男の子の自転車の後ろに乗せてもらって帰るためだ。彼女たちは少しはずかしそうに、でもどこか誇らしげに、幼い「彼氏」の肩に手をかけて河川敷を走っていっ…

行かないかもしれない

台湾料理屋の前を通りすぎて、彼は言う。台湾かあ。行くかな、これから。私はこたえる。行くかなあ、行かないかもしれないね。 それから私は小さい声で言う。ちかごろ、世界のいろんなところに、私は行かないかもしれないって、そう思う。ほんのちょっと前ま…

嘘の副作用

仕事で嘘をつくから、ちょっとつきあってくれないかな。そう言われて休日に中古車を見にいった。彼は中古車屋の店主と話し、乗用車についてあれこれ訊いて、にこやかにそこを出た。 覆面でさまざまな商品の調査をするのが、彼の仕事だ。中古車のあとはハイブ…

涙袋

カフェで本を読んでいて、隣のテーブルの女性が落ちつかない様子をしていることに気づいた。 彼女はおずおずとあたりを見回し、ウェイトレスを目で追い、でも声はかけずに、窓の外を見たりうつむいたりしていた。見たところ四十代半ば、少し面やつれしている…

青いひよこ

最初に生き物が死ぬのを見たときのことを話そう、と彼は言った。 あなたは何が死ぬのを見た?鳩?鳩がからすに捕食されているところを見た。なるほど、それはドラマティックだね。 僕はひよこだった。僕らが子どものころに縁日で売ってた、色のついたやつ。…

花と花のかたち

花の咲いた公園で待ちあわせをすると、彼女は先に来ていた。そのペンダントいいね、と私は言った。よく似合ってる。 うん、これねえ、もらった、と彼女はこたえた。それからすごく不思議そうに、あのさあ男の人って仲良くなるとなんでものをくれるのかな、と…

すずめの明日

すずめって明日とかあるのかな、と彼は言った。なあにと私は訊いた。 すずめはあんまりお利口そうではない。ああいう生き物には過去の記憶がないと聞いた。それなら明日も昨日もないだろう。行動は条件に対してプログラミングされていて、思考はしない。記憶…

もっと親切にしたのに

休日のスーパーマーケットできゅうりを選んでいると、外国人の女性が私の横にいた女性に話しかけた。女性は戸惑って片手を振って立ちさった。外国人女性は私を次のターゲットにさだめ、いささかわかりにくい英語で、でも決然と言った。ここでテレフォンカー…