傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ふるまいのコード

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経って、レストランはなんとなく再開しているところが多い。しかしわたしの伯父の寿司屋はこのまま休業をつづけて、どうかすると廃業するかもしれないという。

 わたしは東北の小さな街に生まれた。進学のために隣の県の都市に出て、そのまま働いている。東北随一の都市ともなると繁華街も大きく、飲食店も賑々しく営業再開しているように見えるが、実際のところは歯が抜けたように休業継続や廃業の貼り紙がある。外食が「よぶん」とされていた期間を持ち堪えられなかった、または疫病下の客数で店を開くことに意義を見出さなかった店たちである。
 わたしは寿司屋に行く。東北は魚がうまいところだと、東京あたりの人は言う。まあ日本の半分くらいはそうなんじゃないかと思う。ともあれわたしはよく魚を食べる。生の魚が寿司の格好になるまでどういうルートをたどるか、わたしはよく知っている。寿司屋を楽しむ方法もよく知っている。伯父の店に遊びに行っていたからである。

 お寿司屋さんはお寿司を食べるところだと、幼いわたしは思っていた。けれども伯父の寿司屋はどうもそれだけではないのだった。わたしの家の近くにはローカルな回転寿司があって、そこだって美味しかった。でも伯父の店のそういうのとは違っていた。子どもにもわかることだった。
 伯父は特別な制服のような白の服を着て白い木のカウンターの内側に立っている。カウンターにはシミひとつない。子どものわたしは醤油をこぼさないよう最新の注意を払う。こぼしたって叱られないとわかっている。でもこぼさない。格好悪いから。
 わたしはそこで「気取って食事をする」という娯楽を知った。清潔さをつきつめた、なんだか神社みたいな感じのする空間で、背筋を伸ばして座ること。姪っ子としての甘えは控えめに、大人みたいに微笑むこと。お店の人と二言みこと話をして、ぴかぴかのグラスに冷たい飲み物を入れてもらうこと。中身がただの麦茶でもその一杯は特別に感じられた。ジュースではなくお茶をもらうのがわたしは好きだった。ジュースだと子どもっぽいし、だいいちお寿司に合わない。それに、あたたかいお茶は最後にもらうものだーー伯父の店のようなところでは。

 あれから二十年が経って、わたしは伯父の店に似た寿司屋にいる。伯父の店を恋しく思う。もう再開はしないだろうと、父が言っていた。震災後も早々に再開してずっと続いていた店なのだけれど。
 わたしの生まれた町は少し観光客が来る漁師町だ。わたしが小さかったころ、たいそう大きな水族館ができて、それでだいぶ人が来るようになった。でもメジャーな観光地というわけではない。伯父の店のお客は地元の人と観光客が半々くらいだった。それなら地元の人が支えてくれるかというと、どうもそうではないようだった。
 伯父の店は町いちばんの高級店だから、冠婚葬祭の需要も多かった。でも人が集まるには感染症対策を万全にした上で人にとやかく言われないよう気を配る必要があり、それなら近隣の少し大きな町に出た方が楽なのだ。電話の向こうで母がそう言っていた。

 だからわたしの生まれた町には、わたしが寿司屋と思うような寿司屋はなくなる。わたしが好んで行くようなレストランはそのうちゼロになるかもしれない。もちろん、そうした店がなくなっても、外食はできる。水族館の向かいに巨大なショッピングセンターができて、そこにひととおりの飲食店が入っているのだ。寿司屋だってある。
 けれどもそれらはわたしの感覚では、とても綺麗なフードコートだ。全部の店が同じ法則で動く。ぴかぴかで明るくて内装も素敵で、気兼ねも緊張もいらない。いいと思う。わたしだってそういう店にも行く。
 けれども、飲食店がそれぞれのコードを持ち、人々がそれを楽しみ、子どもが入る時には緊張して大人の真似をする、そういう店がなくなるのは、やはりある種の豊かさが失われることだ。そうした豊かさを必要とする人は、実は一割もいないのだろうけれど。ぴかぴかのショッピングセンターがある豊かさの方を、多くは選ぶのだろうけれど。そもそもわたしのように大きな都市に出た人間が故郷をとやかく言う権利なんかないんだと、そう言う人だっているだろうけれど。

 わたしはカウンターの白木を見る。わたしは周囲のお客の会話に耳をかたむける。わたしは板前さんの説明を聞く。わたしの好きな「よぶん」をゆっくりと味わう。