傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

壁を塗りに来ないか

 壁を塗りに来ないか。
 そのように誘われたので行くとこたえた。変わった誘いにはとりえあず乗っかるたちである。中古の一軒家を買って自分で壁を塗っているからやってみないかと、そういう話だった。
 往路の電車で友人が作成した作業解説動画を閲覧する。大切なことだけれど、と画面の中の彼女は言う。このペンキは水性だから臭くない。動画を三十秒を残して電車が駅に着く。
 通されたのはリビングと思われる広い部屋で、まだ空っぽだ。真ん中に大きなブルーシートが敷いてあり、友人の小学生の娘がいっぱしの手つきで木箱を塗っていた。聞けば「一年生のときに選んだ色に飽きた」のだそうである。床材は友人のパートナーがその仲間たちと張ったという。ビーバーみたいな家族である。

 友人に借りた作業用の上着を羽織る。
 わたしはまったく知らなかったのだけれど、塗る時間より塗る準備をする時間のほうがずっと長いのだった。ペンキを塗る面のキワにマスキングテープを張り、さらにビニールつきのテープをはって、そのビニールをのばしてマスキングテープで床に貼る。養生というのだそうだ。まっすぐに貼れるとうれしい。そういえば手作業なんてせいぜい料理くらいしか、近ごろはしていないのだった。
 「『塗装は養生が九割』という新書を出そう」とわたしは言う。友人が笑う。わたしは即興で「ない新書」のカバー折り返しを読み上げる。著者、渡辺二三男。株式会社ペイントユアドリーム代表。大手証券会社を経て実家の内装会社を継ぐ。着任当初は空回りするばかりだったが、この仕事を理解したいと地道な養生作業に精を出す姿に、ひとりの老職人が目を留める。SNSで話題沸騰。四回泣けます。QRコードから特典をダウンロード。
 小説っぽいな、と友人が言う。もっとトクしそうな内容じゃなきゃ売れないよ。
 休憩してお茶を飲んで、いよいよペンキ塗りだ。壁を大胆に汚す(汚してるんじゃないんだけど)なんて、なんだか愉快だし、やっているうちに刷毛の動きにリズムができてきて、気持ちがいい。「みんなやればいいのにね」と友人が言う。わたしはまた「ない新書」のタイトルを口にする。『教養としてのペンキ塗り 現代のビジネスパーソンに必要なたった一つのこと』。いいぞ、と友人が言う。売れそうだ。彼女は脚立に乗っていて、壁の上半分を塗っている。わたしは下半分の担当である。わたしは刷毛を動かしながら、ぺらぺらと「ない新書の折り返し」を読む。
 著者、アンドリュー・デイヴィス。コンサルティングファームを経て自身の納得のいくペンキを開発する会社を設立。少数生産ながら世界中に熱烈なファンを持つブランドペンキ企業に成長させる。独特の哲学を語る人気Youtuber。チャンネル登録人数200万人突破。
 よし、アンドリュー、前書き。友人が言う。
 わたしは語る。情報過多の現代、わたしたちの脳はとても忙しい。真面目なビジネスパーソンほど、頭の中を情報でいっぱいにしてしまう。でも、それはまさに「息づまり」そして「行き詰まり」なんです。新しいアイデアは急流からしか生まれない。だからマインドフルネス? ええ、流行りましたね。あなたの習慣になりましたか? お答えいただかなくてもわかります。あれを習慣にするのはとても難しいんです。なぜならそこには快感がないから。うっとりと眺めて手で触れたくなる美しいものがないから。ーー大丈夫です。あなたにはペンキがもたらされます。あなたは壁のあるところに住んでいますね? OKです。さあ、刷毛を持って、本文へ進みましょう。
 友人は脚立の上で爆笑している。

 どう、いい感じじゃない?
 二度の塗りを終えた壁を見て友人が言う。自分の塗ったところにムラが目立つ気がするよ、とわたしはこたえる。乾けば目立たなくなるし、ムラも味のうち、と友人が言う。それから眉を上げて、言う。
 どうだい、アンドリュー。
 わたしはこたえる。
 パーフェクトだ。これは君だけのパーフェクト。誰かのではなくて。
 友人は爆笑する。いそう、資産家に見えないラフな格好で自然の中の気取らない一軒家に住んでリモートワークしてそう。実は守銭奴で冷酷に社員の首を切ってそう。

 友だちが来てペンキを塗ると、子どもの教育にも良い。駅まで送ってくれながら、友人が言う。なんで、とわたしは訊く。「ない新書」の話とかしてバカ笑いしてるのに?
 大人になってもペンキ塗って愚かな話をして笑っていていいんだと理解するからだよ。友人が言う。意味のあることばかりを良しとする大人にはできればなってほしくないんだ。