傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

開放されない生態系

 お姉さんはお元気、と訊くと彼はふうとため息をつき、理不尽な過程の果てに刑罰を執行された冤罪者みたいな声で、近ごろ姉さんに醒めちゃってさ、と言った。私はひどく感銘を受け、心をこめて、異常だ、と言った。日常語ばかりで構成された短文ひとつがここまで異常なのは実にすばらしいことだよ。お姉さんをよほどのこと好きだったんだね、そしてそれは過去のことなんだね、悲しいことに。悲しいことに、と彼は完全な無表情でこたえ、それからかわいそうな子どもの反射運動として、何百回もペーストされた笑顔を見せた。
 彼の父は医師といえば父自身とアルバイトのほかに誰もいない小さな医院の院長で、姉はその非医学的な側面を、やはりアルバイトを雇いながら、その一手に引き受けている。専業主婦の母親の調える完璧な朝食を彼らはかこみ、彼らの患者を悪しざまに罵って、あんなのでも診なくてはいけないんだから、と笑う。彼はその健全な食卓の隅の定位置で黙々と箸を遣う。
 いくぶん年の離れた彼の姉は彼の中学生の時分に家を出て関西の大学に進学した。必ず帰ってくるからねと彼女は言って、もう背丈の変わらなかった彼の頭を、それでもやさしくなでてくれた。だからいい子で、がまんしているのよ。姉はとてもきれいだったから、彼はうなずいた。
 姉が関西の企業に就職したとき、裏切られたと明確に彼は思った。いい子にしていたのにと思った。だから家を出たら良かったんだけど、僕も学生でお金はなかったし、家があるのは楽なことで、だからずるずるといてね。都内の美しい一軒家の間取りについて彼は話し、お姉さんを待っていたんだねと私は相づちを打つ。彼はいやな顔をする。
 彼は美大に進み、デザイン事務所に就職を決めた。そのことを報告するとサラリーマン、と父親は害虫を指す声で発音して、時間の無駄だ、と彼を見ないままに言った。彼は振りかえった。母親はワイングラスときれいに並べた露地栽培の苺を載せた盆をかかげ、ほほえんで立っていた。彼はだまって彼の子どものころに与えられた自室に戻り、恋人にメールを送ろうとしてやめ、友だちにメールを送ろうとして、それもやめて、人工知能に英文学を教える話の書かれたペーパーバックを読んで眠った。彼は絵を描くことがなにより好きでとても上手で、それからアメリカの小説が好きで、そのためにこつこつと英語を学び、幾何とサイエンス・フィクションを好きで、医院の仕事にはこれっぽっちも興味を持てずにいた。
 姉が帰ってきて医院の仕事をするようになってしばらく、彼は熱に浮かされた人のようになった。姉は廊下をはさんだ向かいの部屋、その家が建てられたときからの彼女の居室に住んでいて、けれどももう高校生なんかじゃなくって、彼の父の片腕に成長していた。だから彼らは完璧な朝食の席で、いつも病院経営と資産運用の話をしている。
 父と姉は患者を見下す、と彼は言う。父は僕を見下し、母をそれよりは少しおだやかな方法で見下す。母はこっそり姉を見下す。僕だけのいるところで三十代の独身女性について罵詈雑言を吐く。姉は僕の部屋に来て専業主婦は悪だと言う。そうして僕を支配下に置こうとする。うんそうなんだ、姉は僕が、彼女の口にするすべてのことに賛成しなくては気が済まないんだ。僕の本棚を見て軽蔑のため息を聞かせる。それで読ませようとする本は、できる経営者のなんとかみたいなやつ。
 できる経営者はだいじだよと私は言う。そういう問題じゃないんだと彼は言う。そうだねと私はこたえる。問題は、と彼は言う。そのような蔑視のエコシステムである家庭において、僕が姉も父も母も蔑んでいないってことなんだ。里山が自然に開かれているように、完全に閉じられた生態系はないのだから、アクリルの玉につくられた小さい生態系はいずれ腐敗するのだから、僕は誰かにその毒を手渡している、たぶん。同僚にかもしれない。友だちにかもしれない。だからたとえばサヤカに。母親みたいな顔してあなたが姉と同じに独身で働いていることを、父親みたいな顔してあなたが僕と同じ会社員であることを、あるいは彼らのすべてがそうであるように、医者じゃないことを、あるいは、ただ女であることを。そうして友だちなんかみんないなくなるんだと思う。
 家を出たらいいよと私は言う。一人暮らしなんか簡単だよ、広い生態系が酸素をくれるよ、私たちは危険を避けるだけの力を持っているのだし。誰も見下さずに生きていけるとは言ってくれないんだねと彼は言い、私は口ごもり、彼はペーストされた笑顔に戻って、私たちの好きな作家の新訳について話しはじめる。