傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの可愛い可愛い部下

 最初の皿が来ても、まだだ、と判断する。それが半ば以上空いて、しょっちゅう会うわけでもない私たちのあいだの空気の凝りがそれなりにほぐれたところで、私はそのことばを口に載せる。それは私の内側で注意深く削られているからとても軽い。ねえ、何か、いやなこととかあったの。
 彼は軽く目を伏せてほほえみ、手を止める。口をひらく。自分でもけっこう露骨に顔に出てるとは思う。でも会社の誰もそれを指摘しないんだ。僕に興味がないのかもしれない。人の顔なんかそんなに見ちゃいないのかもしれない。あるいはみんなは僕が嫌いで、ざまあみろと思っているのかもしれない。もっと窶れたらもっと喜ぶのかもしれない。
 よその部署から新しい部下がやってきて、彼のそばの席に座ることになった。彼のアシスタントをしながら仕事を覚え、ゆくゆくはひとりでそれができるようになることを期待されていた。その部署をあずかる管理職は新しい部下の前で彼をうんと褒めた。彼がいかに短期間のうちに、いかに華々しい成果をあげたかを愉快そうに説明して、エースの下につけるのはエース候補だなどと、新しい部下のことも持ち上げてみせた。持ち上げられた彼女は彼のそばに来て、彼を見上げてにっこりと笑った。小さい人だった。
 別の部署にいる同期は若くて可愛い子が来てよかったなと言い、おまえいつまで独身なんだと続けた。そのふたつのせりふはまったく断絶しているように彼には感じられたけれども、しばらくしてなんとなし思いあたり、目の下がひくりと痙攣した。彼女がにっこり笑ったとき、彼はこらえたのだ。彼女のいる場所は彼が許容する距離より少しだけ近かった。彼はさりげなく椅子を引いて腰かけ、その動作のすべてを使用して彼女から離れた。自動的に愛想良く笑う自分の顔に彼は感謝した。
 集中してPCに向かっていると背後に気づかない。気づいたらひどく近いところに彼女がいて彼をのぞきこんでいることが、何度も何度もあった。そのたびに内臓に悪いものが投げこまれたみたいな気分になった。一度などはあからさまに身体をそらしてしまった。彼はなるべく穏やかに言った。僕は気が小さいので、急に人に気づくとびっくりしてしまうんです、できたら少し前に声をかけてもらえると助かります。その後、彼は手洗いで顔を洗った。なぜか歯も磨いた。
 そこまでをひといきに話して彼はため息をつく。嫌いになる材料もまだそんなになかったころから、そんなふうなんだ。その人がそばに来るのが、気づいたらすぐ後ろにいるのがもう、嫌で、嫌で、嫌で。会社とぜんぜん関係ない友だちを誘って飲みに行って聞いてもらったよ、そんなこと滅多にない。おまえ彼女にどうしてほしいんだと訊かれて、三十センチ離れてくれ、いや五十センチ、できればメールで、ぜんぶメールで済ませてくれと言った。
 部下としての彼女はたしかに優秀だった。彼女のメールの彼に対する敬語は過剰で、彼女は彼にうやうやしく接し、だから彼は気分が悪くなってはいけないと、何度も自分に言い聞かせた。そうして彼女は、彼が彼女の仕事をほんの少しでも否定すると、それが彼の誤解や誤認のたぐいである旨の長い長いメールを送ってくるのだった。彼はそれを見ると髪の根元がいっせいにぐらぐら揺れているみたいな感触を覚えた。ある日彼女は確実にしなければならないことをーーとても小さいことだったけれども、でも確実にしなければならないと明文化されていることを、しなかった。彼は簡潔に「以後はこれをしてください」と書いて送った。彼女は例によってそれが誤解か誤認であると言いたげなメールを送り、彼は「以後はこれをしてください」を繰りかえした。何往復目かの彼女のメールにはこう書かれていた。承知しました。本件、これで終了といたします。
 私も、その人、だめだなあ。なにも彼をかばっているのではなくて、ほんとうにそう思って私は言う。パーソナルスペースって、読むでしょうよ、ふつう。もちろん最後のは完全にアウトだし。なんで注意されてる側が終了を宣言するんだっつうの。その発言は注意すべきだったんじゃないの。彼は力なく笑う。でも僕は、上司だからさ、と言う。上司で男だから。相手はみんなが可愛いって言うような女の部下で、僕が個人的に彼女を嫌っていることに、おそらく気づいていて、プライドはエベレストみたいに高くて、ほんとは僕なんかの指示を受けたくないわけだよ、たぶん。そこで強く叱ってごらんよ、僕はどうなると思う。私はいろいろのことを想像して、それからなんだかかなしくなって、彼女が早く一人前になってくれたらいいのにね、と言った。