傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

私たちの好きな弱者

 声が耳に入って反射的に振りかえる。その動作が終わるころになって知っている声だったと気づく。女は私の隣の誰もいない椅子の、その隣に座って、軽く笑い声をたてる。あの人だ、と私は思う。ずいぶんと時間が経っているけれども、間違いない、と思う。
 そのころ私は大学生で、金曜日の夜はたいていファミリーレストランにいた。正確には金曜の夜から土曜の朝にかけて、カップや皿を運び、フロアの半分を無人にして掃除機をかけた。人々は華やぎ、あるいは少し疲れていて、終電のころに入れ替わり、入れ替わった後の人種の方がいっそうきらきらしく、いっそう疲弊していた。終電を逃したのかもしれないし、いるつもりだった場所に飽いたのかもしれない。追い出されたのかもしれないし、何かのあてがはずれたのかもしれない。そのような人々を、私は好きだった。
 わけても気に入りのひとりに、二十代半ばの女性がいた。端正というにはくせのある、おそろしく魅力的な顔立ちをして、いつもくっきりと化粧をほどこしていた。たぶん毎回ちがう男の人が一緒で、始発より少しあとに店を出る。ひと月かふた月を置いて彼女はあらわれ、すると私はうれしくなって、彼女のために新しいコーヒーを立てた。そのそばにいる若い男はどれも似たような顔をして、気の利いた服を着て、私の興味を少しも引くことがなかった。
 私は人の顔を覚えるのが極端に苦手だから、先に気づいたのは彼女のほうだった。化粧がうんと薄くて服装が地味だった。ゼミ室にいると年相応の学生だなあと、そう思った。講座配属で歓迎される側の新人である私を、歓迎する側の彼女はさっと眺めまわし、はじめまして、と言った。そこに彼女の意志を感じて同じせりふを私は返した。とくに理由がなければ、私は私の好きな人たちの都合の良いようにふるまう。お手と言われたらその人のてのひらに私のそれを載せるだろう。
 けれどもそんなことを彼女は知らないから、次の金曜日、私のアルバイト先に来た。夜明けの光が日よけの縞状の影を床に刻むころ、着替えて彼女のテーブルに行くと、ここの制服似合うねと彼女は言った。安っぽくて可愛い。ありがとうございますと私はこたえた。私はここにいると紙細工の人形になったみたいでそれが好きです。そう、そういう感じ、と彼女は言って、にっこりと笑った。いつもより化粧は薄く服装もおとなしく、でもゼミ室にいたときよりはくっきりしていた。
 用件はわかっているかしらと彼女は尋ねる。口止めですねと私はこたえる。それくらいしか思いつかないんですが、でもどうしてでしょう。私ここで見る先輩を好きなのに。すごく格好良い。彼女は苦笑して尋ねる。なにかほしいものはない?そんなのなくても、私、言うこと聞きますよ。信用できないなあ。じゃあ理由教えてください。そうだ理由教えてくれなくっちゃばらします、ばんばんばらします、なにくれたってだめです。おかしい子と彼女は言う。それから話す。私はね、かわいそうな子なの。
 彼女は授業料の免除を受け、留学生のためのアパートメントで留学生たちの面倒を見、見返りに無料でそこに住んでいる。生活費はアルバイトでまかなっている。無償の留学プログラムにも合格した。それもこれも私がかわいそうだからなのと彼女は言う。後ろ盾もお金もないのに学生なんかやって飢えもせずいい目を見ているのは私がかわいそうな子でみんながそれに同情しているからなの。私は特別にいろいろなことを免除されている、人々の好意とそれに基づく制度によって。みんなかわいそうな子が好きなの、やさしくしてやりたいの。だから私は彼らの好きな弱者でいなければならない。けなげで可愛い、彼らの好きな弱者の顔を、彼らの前ではいつも、完璧にしていなくては。
 彼女がいろいろなものを手に入れているのは彼女が優秀だからだし、夜明けに彼女といるあの男たちがそれに何の関与もするはずがない。けれども私はただ、黙っていますとだけこたえた。ありがとうと彼女は言って、にっこりと笑った。私はかなしかった。私が好きだったのは、かわいそうじゃないほうの、彼女だったのに。
 いま、ふたつとなりの椅子で話している女に、かわいそうなようすはなかった。私は自分と話していた相手にことわってスマートフォンを使った。ごく一般的なSNSに、彼女のアカウントはあった。閲覧できるプロフィールに、かわいそうなところはなかった。私は安心して、それから少し寒くなる。私にはいま、好きな弱者がいやしないだろうか。こんなふうなら好きでいてやると、誰か弱い人に、無言で告げてはいないだろうか。