傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

あなたの手持ちのすべてのカード

 彼女は彼の求めに応じてアドレスを示した。ありがとうと彼は言ってにっこりと笑った。彼女はひどくうれしくなって、それから、こんなにうれしいのはおかしい、と思った。もしかして私はこの人に一目惚れしたのだろうかと二秒間検討し、いや、それは、ない、と結論をくだした。自分のどこを探してもそうした感情は見つからない。あんなにいい気持ちになったのは、彼の笑顔があまりにすてきだったからだ。そう思った。こんな顔を向けてもらえるなんて自分はきっとすごくいいものにちがいないと、そんな気持ちになった。
 彼女は彼を見る。特別に整った造作なのではない。特別に醜いのでもない。整っていない部分の、その不均衡が一定の範囲を超えない。ただ笑顔のほかもみな、毒気をきれいに抜いたみたいな、目の触りのよい表情ばかりだった。知的な表情はしばしば抑制を感じさせるけれども、彼は珍しいことに、ほとんど「邪気がない」といっていいような空気をまとっていた。彼は彼女に声をかけてから三十分が経過した今の今までずっと、お風呂あがりみたいな、すこしぼんやりした、清潔な顔をしていた。ついさっきまで誰の目にも見えない四十二度のお湯に浸かって、突然に服と髪とを整えて目の前に座っている人のように見えた。
 それから彼はそのようなようすのまま、プラスティックのカードを彼らのあいだのテーブルに置いた。なあにと彼女が訊くとID、と彼はこたえた。彼の筋肉は座ることのほかのすべての動作にとらわれていないように見えた。彼はそれから笑って口を利いた。怪しい者ではございません。いい会社にお勤めですねと彼女は言った。彼は衒いなくうなずいた。うん、そう、少なくとも有名だ、みんな知ってる、だからね、これを見せたらあなたの気を惹けるのじゃあないかと思って。
 あんなのは異常ですよ異常、と彼女は私に一部始終をまくしたて、ぐいぐいとビールをのんだ。異常だねえと私はこたえて、彼女よりは控えめに自分のグラスを傾けた。ひどく愉快な気分だった。マキノさんなんですか、なんでそんなにうれしそうなんですか、私のことからかってるんですか。どうどうと相手をなだめた、その両手に力をこめて私は、彼女の肩をたたく。痛い痛い、まじで痛いですって、ちょっとマキノさん。年若い友人が本気で迷惑しているようすを私はにやにやと堪能して、白旗はいいものです、と言う。彼女は首をかしげる。
 彼は白旗を揚げている、と私は言う。彼はそもそものはじめから完全にあなたに敗北している、それがなぜだか私にはわからないけれども、あなたはきれいで元気でとっても頭の良い女の子だけれども、そんなのがあなたを道ばたで見ただけの彼にはほんとうにはわかるはずがないのだから、きっともっといいかげんな理由で、彼はあなたに敗北した。そんなのって異常だよ、そして素敵だよ、まったくのところ。
 彼女は首をかしげる。私はだらしなく笑う。よかったねと言う。そういうのってしょっちゅう出くわすものじゃあないよ。人はあるとき別の人に白旗を揚げる、手持ちのカードをぜんぶ広げてどうか自分を見てくださいと言う、ひっくり返った犬になる、腹を蹴られたらキャインと鳴く無力で小さい犬になる。それはとても、いいことだ。たいていの人間はろくでもなくって、手持ちのカードがごみになるまで後生大事にとっておいて、そのまま死んでしまうのに。
 彼女はすっと目を細めてつぶやく。おめでたいなあ、マキノさん。なんだいと私は問う。私がおめでたいことはとうに知っているけれども、今おめでたいのはどうして。彼女は突然追いつめられた人の顔をして、言う。だってあれがぜんぶよくできた演技だったら私どうしたらいいの。あの人が私のアテンションとエモーションを根こそぎ持っていって私を嘲笑する、それが目的で上手な演技を見せているなら、私はどうしたらいいんですか。
 そんなの決まってるじゃんと私はこたえる。白旗を揚げればいい。手持ちのカードをぜんぶ見せて、あなたは素敵だと言えばいい。私はね、つまらない取り引きみたいなものはほんとうに嫌いだ、色恋沙汰のそれはとくに嫌いだ。どうして感情を出し惜しみするの。好きになってどうして好きと言わないの。自分の感情で何かを買おうとする人は最初からみんな、負けている。だって感情は、通貨じゃないんだ。それはあなただよ、あなた自身なんだ、何かと取り替えるような、つまらないものじゃないんだよ。だから私はひっくり返った犬みたいな彼を好ましく思うよ、それが演技であったとしたら、ただ軽蔑すればいいだけのことじゃないか。