傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

透明な欲望を汲みだす

 かれしが、と彼女は言う。新しい彼氏、と私は訊く。彼女はこっくりうなずく。以前つきあっていた男の子と別れてだいぶたつので、よかったねえと私は言う。あんまりしょっちゅう恋人をつくるタイプではないのだ。この若い友人にはほとんど必ずいつも薄い不安の気配がまとわりついているのだけれども、それがふわりと濃くなったように思われた。表情の輪郭が茫漠として目ばかりぴかぴか光って、なんだかいつもよりきれいだった。
 サラダとか、取り皿にとってくれるの。焼き肉も焼いてくれるの。小さい子じゃないよって言っても、あの人のほうがなんにだって早く気がつくから、私はまにあわないの。彼女はそのように話し、そうかいと私はうなずく。相手が自然にそうしているのだったら、かまわないんじゃないかな。ありがとう、美味しいねって言えば良いと思うよ。ほかにはどんな感じなの、新しい彼氏は。私はそのように訊ね、彼女はぽつぽつと彼について話す。私はその断片的なエピソードを積み上げて彼について理解するために意識してコーヒーカップの香りを聞く。その黒い魔法の液体が私を助けてくれる気がしている。
 彼は彼女の手を引いて歩き、彼女の通る扉をひらき、彼女のほとんどすべての戸惑いを彼女自身より先に察知した。彼はたかが半年のあいだに、彼女の性質と能力とくせと体調についての情報をじゅうぶんに蓄積し、パターンを算出し、常時それを更新しつづけているように思われた。彼は彼女が何かを欲する前にそれを差し出しているように思われた。それも走って取りに行くのではなく、ポケットの中にあるものを取り出して渡すみたいなしぐさで。
 彼女が熱を出すと彼は彼女より先にそれに気づいた。具合が悪いことに気づかないのはよくないねと彼は言った。彼はそれから、彼女のある種の鈍さが担う役割に関する彼の推測を口にした。彼は彼女の話を引き出し、彼女の覚えているかぎりの過去を自分の頭にうつし、それらに対して彼女が現在感じていることを聞き取った。彼は彼女をなでてやり、そうされると彼女は安心した。彼はやがて彼女の家に「帰ってくる」ようになり、彼女の生活習慣を把握して、その隙間に自分の生活をすべりこませた。そんなに大きな隙間であったとも思われないのに、彼は悠々と楽しげで、はじめからそこにいたみたいにふるまうのだった。
 彼は彼女にいくつかの物を手渡した。彼女はそれをほしかったのではなかった。彼女が存在を知らなかったものも、そこにはふくまれていた。物たちが彼女のもとに来てしばらくすると、彼女はそれらを自分が必要としていたことに気づいた。贈り物はもらったときにうれしいのだと彼女は思っていた。彼の贈り物ももちろん、もらったときの喜びを彼女に与えたけれども、その後の働きのほうがより大きく彼女を驚かせた。彼は彼女の、自分にも見えていない欲望を、いろいろなところから汲みだしているように思われた。
 彼女の話がとぎれ、私は詰めていた息を吐いた。どう思う、と彼女は訊ね、私は声を出さずに回答する。とても美しいね、そして邪悪だ。実際にはもちろんこう言う。愛だね。それはわかるんだけど、と彼女はつぶやく。でも私、してもらってばっかりで、へんだよって言ったら、いっぱいしてもらってるって、彼言うんだ、なんにもしてないのに。私は少し迷ってから口をひらく。してるんだよ、あなたは。彼女は首をかしげ、私は説明する。世の中には、大きい穴のあいた人の、その穴をどうにかしてやることがとても好きな人がいるんだ。もちろん大きい穴があれば誰でも良いわけじゃない。でもそういう性質を持つ誰かに激しい恋をするのは、それを必要としているからなんだ。相手の穴をいろいろなものでふさぐというか、子どもの部分を引っ張りだして育てるというか、そういうことを、とてもしたいんだよ。だからしてもらっていていいんだと思う。
 育ったらどうなるのかなと、小さい声で彼女は言う。私はたしかに小さい子みたいにあの人に扱われていて、それが必要なんだと思う。でも小さい子は育つよ。そうしたらどうなるんだろう。大人には大人同士の関係があると私はこたえる。けれども私も彼女も、口に出さないままきっと理解している。大人同士の彼らが恋をするかどうかはわからない。それから、子どもが大人になる前には、思春期の嵐がやってくる。嵐は親と子のあいまいな境界を引き剥がす。剥がされた傷口の残らない思春期なんて、きっと、ない。