傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

タマのこと

 タマは近所の猫である。ムギとクロという二匹の同居猫と一緒に暮らしている。緑がかった灰色の目の、非対称のハチワレの、小柄で静かな猫である。夕刻になると、白髪をゆるやかに編んだ、緑がかった琥珀の瞳の、どことなくタマに似た女性が、猫たちに家の中から延びるリードをつけて引き戸をあける。すると猫たちは建物の外の線状の敷地に出てしばらく過ごす。敷地と道路の境目はあいまいで、道路には車通りがほどんどない。
 わたしは犬を飼っている。四歳の雌の柴犬である。タマ家の前はこの犬の散歩エリアに含まれる。ひとつの散歩コースを好む犬も多いと聞くが、わたしの犬にはまったくそのような性質がなく、わたしがコースを決める日以外の散歩では、自宅から直径五キロ範囲の道路を制覇するかのように毎日ルートを変える。その中にタマ家の前の道路がある。わたしの都合で猫たちが出てくる夕刻に散歩する日は少ないのだが、犬はその機会をのがさず「今日はこちらに行きますよ」と意思表示する。
 わたしの犬は猫をたいそう好きである。じゃれつくとか獲物として狙うとか、そういう「好き」ではない。猫を前にしたわたしの犬のようすは、アイドルファンの友人いわく「アイドルの握手会に来たオタク」だそうである。相手が許すギリギリの距離までそっと近寄り、うっとりと眺める。
 すべての猫はこの犬のあこがれの生き物なのである。ときどき遭遇する地域猫からは会うたびに威嚇されているが、この犬は相手が威嚇した段階でぴたりと止まり、おすわりして威嚇を拝聴する。ふだんはソファに寝そべっている飼い主を踏んで自分の席を確保するような図太い犬なのだが、猫ちゃんの前ではたいへん繊細な気遣いを見せる。
 そのようなわたしの犬であるから、タマのことはそれはもう大好きである。もちろんムギもクロも好きなのだが、タマは気が向くと犬に鼻を寄せてくれるほど(猫としては例外的に)犬が嫌いではないのだ。犬はたいへん嬉しそうに、慎重に自分の鼻を差し出す。差し出す勢いが強すぎるとタマは猫パンチのそぶりをする。すると犬はあわてて身を引き、きわめて恐縮したようすを見せる。でもその場を離れようとはしない。帰るときはわたしにリードを引かれ、振り返りながら不承不承歩く。アイドルファンの友人は「引き剥がされている」と言っていた。
 白髪の女性の説明によれば、ムギとクロはフリでなく、本気で猫パンチをする。彼女はわたしの犬を撫でながら、犬に向かって話す(動物好きはしばしば、動物が言語を解さないと承知の上で、動物に長々と話しかける)。ムギ、クロ、猫パンチ。わんちゃんより速い。シュッ。痛い。血が出る。わかった? ムギクロにはこれ以上近づかないのよ。そこにいるぶんにはOKみたいだから。
 犬はおすわりして幸せそうな顔で猫たちを見ている。

 わたしも猫ちゃんを好きである。世間には「犬派」「猫派」などという区分もあるようだが、わたしにはぴんとこない。「猫ちゃん」の発音が「ン゙ン゙ン゙猫ちゃぁぁぁん」になるくらいには好きである。猫を飼っている友人もわたしの犬をかわいがってくれているし、飼うほど好きならだいたい両方好きなのではないかと思う。
 そんなわけでわたしもタマ、ムギ、クロにはお世話になっている。猫ちゃん成分を補充させてもらっているのだ。わたしはしゃがんで彼女たち(三匹とも雌である)に存在を許容してもらおうとする。ムギはちらりとわたしを見る。クロはたいていそっぽを向いたままだ。タマはだいぶ近いところにいて、わたしと目をあわせ、ゆっくりと三度またたく。犬にも同じことをする。飼い主さんいわく「知りあいだとわかっていて、あいさつしている」とのことである。うれしい。
 犬は毎日二度散歩する。二度目の散歩はたいてい夜になる。三匹の猫のいない時間帯だ。それでも犬は、週に一度はタマ家の前を通りたがる。そして猫たちのくつろぎゾーンに鼻先を入れて地面をかぐ。気の毒なほどの片思いぶりだが、それもまた人生、否、犬生である。
 タマは窓辺で長いこと外を眺めるのだと、飼い主さんが言っていた。あの窓よ、と指さした、三階建ての三階の端の小さい窓には、たしかにときどき、切り絵めいてあざやかな猫のシルエットがうつるのだった。タマだよ、とわたしは言う。犬の視力ではわからないだろうし、シルエットの概念を理解することもないだろう。大脳新皮質が未発達だからね、とわたしは言う。そして大脳新皮質が未発達であるがゆえの狭いひたいを撫でてやる。切り絵のタマのしっぽがゆっくりと振れる。