傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

警告と避難と生還

 片足を引いて自宅に戻る。良くない兆候、と彼は思う。バランスが崩れている。彼はこの十年ばかり、月に五十キロメートル程度を走っていて、腫れるほど足を捻ったことは二度しかない。彼はなにごとにも慎重だし、無理をするたちでもない。子どものころは丈夫でなかったから、限界から少しのりしろを取る癖がついているのだと思う。だから学生の時分、もう少しハードなスポーツをしていたころにも、あんまり怪我はしなかった。
 コンビニエンスストアで固定用のテープを探す。明日の出勤前に、もう少しきちんとしたものを買わなくてはいけないと思う。深夜の住宅街にも人はそれなりにいて、車止めに座ってテープを巻いているランナーをちらと見る。彼はうつむいて歩きだす。痛みは何度味わっても色あせないし、何分続けて味わってもずっと新鮮なままだ。どうして慣れないんだろうと彼は思う。ほかのたいていのことには慣れて鈍くなるのに。角を曲がると少し離れた港の、その向こうの岸のはなやかな光が目に入る。もう一度地べたに座りこんで彼は、ひときわ背の高いホテルの輪郭を目で追う。彼はその建物の姿を気に入っていた。それはとても遠くにあるように見えた。遠くにあっていつまでも平和でその中にいれば世界の終わりが来ても生き残ることのできる丈夫なシェルターみたいに見えた。
 次の週末、彼はどうしてかその建物の中にいた。何をしているんだろうと自分で思った。週末するはずだった仕事は先延ばしにして、とくに理由もなく映画をはしごしたあげく、近所のホテルでぼんやりしている。いつも自宅付近から遠望している夜景を反対側から見ていて、あらゆる通信端末を持ってきていない。いま知っている誰かに死なれたら困るなあと思う。どうかみんな無事で、緊急連絡の生じない状況であってほしいと思う。誰かに会いたいかと自分に質問する。いいえ。語学の教科書みたいな否定を彼は口に出す。誰にも会いたくないし、誰とも話したくない。
 立ち上がると足首が静かに痛んだ。彼は窓にてのひらを当てた。シェルターの足下は投影された美術作品のように薄っぺらくきらきらと輝き、粒状の光でできた丸い輪の回るのがほんとうは観覧車で中にいちいちそれぞれの人生を所有する人々の組み合わせがあるだなんて、とうてい信じられなかった。夜の海の水の黒く沈んだ色のところどころに地上の光が映り、その上には地上の灯りが過剰である場所に特有の、はてしなく沈んでいくことのできるうつくしい水面みたいなうす青い夜空があった。彼はしばらくそれらを見ていた。
 あれを断ろうと彼は思った。彼はいくつかのプロジェクトを平行してこなしており、うちひとつについてはどうしても自分の能力が生かされていると思われないのだった。能力なんか生かされなくてもとくにかまわないと彼は思っていた。たいした能力ではないし、代わりはいくらでもいる。自分は天才ではない、特別な経験をしていない、ただ丈夫でどこへでも行けるのを取り柄に好きな仕事を続けていられるのだと、そう思っていた。けれども彼の身体はどうしてもその仕事に一定以上コミットすることを拒絶していた。彼はそのことを理解した。
 ベッドに横たわる。天才じゃなくても、特別じゃなくても、取り替え可能な部品でも、わがままを言えばいいやと思う。その程度の交渉の余地はある。交渉が可能であるか否かにかかわらず来た仕事はぜんぶやるものだと、そう思っていた。でもそれはどうやら正しくないのだった。正しくないから今ここにいるのだと彼は思う。今まで仕事を選ぶような主張はぜんぜんしたことがなかったから、きっと驚かれるだろう。どうしてと訊かれたら足首がと答えようと彼は思う。ぼくの左の足首が、あのプロジェクトは嫌だと言うものですから。そのような想像をして彼はいくらか笑い、声を出して笑ったのがほんとうに久しぶりだと気づいて、もしかして、だいぶ危ないところだったんじゃないか、と思った。
 そんなわけであのプロジェクトはやめます、と彼は言った。そんなわけというのがどんなわけだか僕にもよくわからないんだけど、まあともかく。まあともかく、と私はこたえた。それでいいんじゃないですかね、なんだかよくわからないけど、ちょっと元気になったっぽいし。彼は私をちらりと見て、マキノさんもそろそろシェルターに行ったほうがいいんじゃないかな、と言う。マキノさんのシェルターがなんなのか、ぼくにはわからないけど、でもきっとどこかにあると思う。