傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

飛ぶものに変わる

 口にしてはならないもの。氏名、所属、住所、電話番号。できるかぎり避けるべきもの。自分に強く関連する誰かやどこかの固有名詞。口にしてもかまわないもの。漢字なしのたがいの名前、簡単に変更でき重要な知人との連絡に用いていないウェブサービスのアカウント、おおまかな職種、おおまかな生活、年齢、彼らの使用する巨大なターミナル駅から乗りこむ路線、読んだ本、聴いた音楽、過去の愛に関する物語、軽蔑する人間についての描写、子どものころに怖かったもの、昨日服を買った店、抽象的な議論、偏狭な美意識、あらゆる種類の嘘。
 そのようなルールがはじめから存在したのではないけれども、はじめから一年ばかり経つその夜に至るまで彼らはそれを、結果的に遵守している。彼らに共通の知人はなく、共通の所属はなく、たまさか同じ場所に居あわせて少し口を利いて、なんとなし好ましく感じて、また会う気になって、その次も会う気になった。二度目のとき彼が僕の電話番号を要るかなと訊くと要らないと彼女はこたえた。そういうのあんまり好きじゃないの。そういうのって、つまり、電話番号だとか、住所だとか、会社だとか?そう、と彼女はこたえ、彼を褒めた。お利口だなあ、好きだよ。やったねと彼は言った。
 彼もそのようなものが、それほど好きなのではなかった。話の邪魔になる、と彼は言った。話をするときに、僕の背景を知っている人は、僕のせりふをみんなそれに結びつけてしまう。僕がどの会社に勤めているだとか、独身であるとか、そういうことに。ああそうだ、結婚していたらそれだけは言ってもらったほうがいい、あなたといるのってまるでデートみたいだし、僕にはよその奥さんとデートみたいなことをする趣味はないから。彼女は笑ってそれを否定した。では電話番号を教えることはしない、と彼は言った。あるいは電話番号に類するなにかを。その後しばらく彼らはそうした。彼女は彼と「電話番号に類するもの」についての解釈を無言のうちに共有しているように思われた。口にしてはならないもの、できるかぎり避けるべきもの、口にしてもかまわないもの。
 そこまで話を聞いて、そうかなあと私は首をかしげる。背景ってわりとだいじだと私は思うけどなあ。相手がどこのどいつかわかっているから理解できる話もあるでしょうに。そんな話には飽きた、と彼は言う。たとえばマキノは僕が学生時代どんなにばかだったか知っている。僕がかつてやらかしたものすごく卑しいおこないについても知っている。僕の話はそれにくっついて僕のからだから遠くに行かない。他の人はたとえば、もっとうんといいものとして僕を見ているだろう、たとえば職種なんかで。でも僕はそれもいやだ、プラスにせよマイナスにせようんざりだ、プラスのほうがよけいにうんざりする。カタログに押しこめられてスペックを記述されてる気分になる。会話は、もっと自由に飛び交うものじゃないのか。属性にくっついて飛べないなんて実につまらない。
 私は少し考えて口をひらく。たしかに、共通の知人もなく素性も正確には知らない相手との会話はある意味でとても純粋だろうね。けれどもそんな会話ができる状態は長くは続かないと思うよ。なぜならやりとりを続けていれば相手の素性なんか知らなくても関係ができていくのだし、関係性は相手を知りたいという欲望を喚起したり、飽きをもたらしたりするからだよ。彼はとてもいやそうな顔になり、マキノって基本的に愚かなのにどうして時々正解を引き当てるんだろう、とつぶやく。
 彼は先日、なぜだか突然に、彼女に自己紹介をした。棒立ちになったまま彼女はそれを聞いていた。それから小さい声で、どうして、と尋ねた。どうしてだろうと、彼はこたえた。彼は彼女と同じくらい、自分の行為に驚いていた。彼と彼女はそれきり口をつぐみ、それから別の会話で彼らのまわりの最低限の空気を糊塗して、いつものとおりに駅で別れた。
 それから連絡が来ない、と彼は言う。僕は一度連絡したのに。もう一回すればいいじゃんと私は言う。そういう関係じゃないんだと彼は言う。めんどくさいなあと私はぼやく。あのさ、あなたがたは互いを知らないことで関係をピンで留めていたんだよ。あなたが自分をそれ以上に開示してしまったんだから、もうそのピンは折れてるんだよ。今度は関係に羽が生えて、飛ぶものに変わった。あきらめて網もって追いかけるか、あきらめて飛んでいくにまかせるか、すればいいんじゃないの。