傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

山手線の中で悪魔に会った話

 毎朝と毎週と毎月、その後の一日と一週間と一ヶ月について彼は想定する。想定には一から百の目盛りがついている。百の日、と彼は思う。完全な日曜日。彼はわずかに震え、人に変に思われない程度にほほえんだ。百、すなわち目盛りのいちばん上を使ったことはかつてなかった。彼はその日として想定しうるもっとも良い状態にあってもっとも良い反応をもらい、想定しうるかぎり最大限に適切なふるまいをした。夜の繁華街はどこもかしこもきらきら光って、道ゆく人は皆うつくしく、たのもしく見え、彼らも彼を同様のものとしてあつかっているように思われた。
 山手線のホームの彼の前に並んだのは小柄な女性で、だから彼の視界はほとんど丸ごと残されていた。Merry Christmas! その文字列は電車のボンネットにあった。特別な電車。特別な季節。特別な自分。彼はその機嫌のいい文字列に自然に歩み寄り、それをつかんだ。いい気持ちがした。完全な日。
 もちろん彼の脳によるその命令は筋肉が動く前に強制終了された。彼は動かず、電車はホームに入り、止まった。突然、背後に人の気配を感じた。彼は日常の動作をなぞって乗車し、適切なタイミングでヘッドフォンを装着した。彼は自分が平常であるかのように見せることについて一定の訓練を積んでいた。
 頭ではわかっている。そんなことをしたらものすごく痛いし汚いしみっともないし始末に莫大な金がかかると、よくわかっている。それなのにどうしてもそのイメージは甘く、脳裏から引き剥がした今でさえ鼻先に幸福な匂いが残っている。
 彼の視界に誰かの視線がちらちらと入る。視線が離れたときを見計らって自分の視界の端にその人物の姿を入れる。外国人観光客、たぶんオーストラリアあたり、と彼は見当をつける。観光客はつかつかと彼に歩み寄り視線を合わせようとした。彼はそれを無視した。そして腕をつかまれた。彼はあまりに驚いてちょっと息ができなかった。観光客は言った。なんでみんな電話見てるんだ。なんで話しかけたら無視するんだ。へんな国だな。
 ここではそれが普通なんだ、変なのはあなただ。彼は答え、答えてしまってから、しかたがないのでヘッドフォンを首に落とし、二度とわけのわからない人間に触れられないよう一歩さがった。俺は変じゃない、とその男は言った。ここでは変に思われるんだ、と彼は教えてやった。俺は変じゃないと男は繰りかえした。俺が変だとか、どんなものだとかを決めるのは、あんたたちじゃない。僕らが決めるんだと彼は間髪入れずに言い返した。我慢がならなかった。あなたが何者かは周囲が決める、当然のことだ。男は眉を上げ、じゃあ周囲の誰もお前を認めなかったらどうするんだよ、みんなに死ねって言われたら死ぬのかよ、そんなのぜったい、ちがうだろ、と言った。悪魔だ、と彼は思った。
 今日は完全な日だった。先の午前零時からもうすぐ迎える午前零時まで、誰もが彼の存在や属性やふるまいに合格点をくれた。そんなことはきっともう二度と起きないから、だから彼はそれに傷がつく前にきれいに畳まなければならなかった。でもそれに失敗した。彼自身が気づくより先にそのことを口にするなんて、悪魔じゃなかったら、何だ。
 悪魔はガイドブックを広げて行き先を告げ、彼は力なく乗り換え駅を教えてやった。大きいなりをしているくせに子どもみたいな顔で笑って、ありがとうと悪魔は言った。あんた親切だな、英語もうまいし。そんなことないと彼はつぶやき、俺に決めさせろと悪魔は言った。あんたは親切だし英語だって上手に話せる、それにとってもいいやつだ、握手しよう。いやだと彼はこたえた。僕は特定の何人か以外とはぜったいに接触したくないんだ。悪魔はひどく愉快そうに笑って冗談の様式としての殴るふりを、いかにも英語圏の人間らしい動作で、彼にした。触れないまま器用にそれを済ませて、扉が開くと手を振りながら降りた。大きな背中の安っぽいバックパックが、すぐに見えなくなった。そう思ってから彼は、自分がその男を見送っていたことに気づいた。
 マキノの陣営から悪魔が来た話をしよう。私が電話を取るなり、彼はそのように口火を切った。最後まで聞いてから、なるほどと私はこたえた。たしかにその外国人の言うことは私の考えかたと近いね。人の評価に自分を預けたって早死にするだけだと思う、完璧なんてどうでもいいと思う、あなたがその人を悪魔だって言うのは、あなたを上手に誘惑したからでしょう、早いところ負けを認めなよ、あなたの悪魔にひれ伏そうよ。いやだねと彼はこたえて、楽しそうに小さく笑った。