傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

生き人形の些末な拒絶

 あの、ここいいですか。どうぞ。ありがとうございます、待ち合わせですか、えっと、無視ですか、困ったな、超きれいな人がいると思って来ちゃったんですけど。へえ、ナンパってカフェの相席でもやるんですね。ええもう、やりますやります、ありがとうございます。何がありがとうなんですか。とりあえず口きいてくれたから。なるほど、とにかくなんでもいいから反応があれば、無視よりはずっとまし、ということですか。そうです、とっかかりがないと、もう、どうしようもないんで、こっち見て口きいてくれるのが、もううれしくって。狂気の沙汰ですね。
 えっ。だってそうでしょう、知らない人のテーブルの向かいに座ってなんでもいいから口きいてほしいだなんて、正気の沙汰じゃあないですよ。そっか、いやそうかも、うん、やっぱりいいな、僕の目に狂いはなかったっていうか。すごいですね。えっなにが。よくもそこまで内容のない話ができるなと思って、すごいなって。ひどい。でも口きいてくれるからうれしいんでしょう、無視されてさっさと店を出られるより。
 うん、それは、だって、出ようと思えば出られるでしょう、僕のことものすごい嫌なら。出られます、もちろん、選択権は私にあるし、心理的な圧迫以外のなんの強制力もそこにはない、いま待ち合わせですけど、メール一本入れて出ちゃえばそれでいい。待ち合わせ相手って彼氏ですか彼氏。友だちです、彼氏はいません、夫がいます。いまの五秒くらいで天国と地獄を見ました。そうですか、ナンパとかする人って別に夫がいようが彼氏がいようがかまわないんじゃないの。なんですかそれ、かまいます、それ以上重要なことってないです、彼氏持ちならともかく旦那から奪うなんてただごとじゃできない。
 なんだ、まじめなんですね。え、なんで。だって奪うとか、とってもまじめじゃないですか、そんなのどうでもいいから少し楽しいことができたらそれでいいのかと思っていました。あ、まあそういうのも、ありますけど、そうじゃないのもあるんで、今は、そうじゃないやつです。そうじゃないと言っておくというテクニックもありえますね、それにしたってえらく礼儀正しい、まじめな考えだと思うけど。
 まじめじゃないのってどんなの、知ってるんでしょそういう人を。あら、わかるの。わかるよそんなの。あのね、そういう人はね、たとえば私がついていくけれど思い通りにならなかったら、ブスのくせにもったいぶりやがって腹立つ、と思うの、自分を不快にするようなことを言うたびに、黙ってハイと言えと思うの、それで、もしも私とつきあったとしても、もちろん同時並行でほかにも女たちがいるの、自分の手持ちの「女の座席」のいちばん上のシートが彼女で、そこに置いてやるんだから喜べ、くらいの感覚なの、それが、あなたという人。
 ちょっと、怖いこと言わないでください。なんで怖いんですか。だって、なんでわかるんですか、僕の顔に書いてあるとでも?わかりますよ、書いてあるようなものですよ、あなたはどこかの女の人に対してそんなふうに思ったことがあるし、これからもそう思うにちがいないの。あなたみたいな人はね、女を憎んでいるの、モノみたいに扱いたい、本当はそうしたい、それが自然で当たり前だと思っている、それなのに人相手みたいなふりをしてやらなければならないのはだからいつも腹立たしい、だますようにしないと、生き人形である女どものあるべき反応、つまり、笑ってくれたり、はだかになってくれたり、そういうのが得られないことが、とても腹立たしい。
 私はおもしろがってしばらく彼らのやりとりを聞いていた。彼女は私に気づいて、照れ隠しのように短く声を出して笑った。待たせてごめんと私は言った。彼と目が合ったので私は謝った。どうもすみませんねえ、この人が失礼をいたしまして。それから彼女に言う。だめじゃないか、そこいらのいたいけなナンパの人をいじめては。暇だったんだもんと彼女は言う。でも、と彼が言う。私は彼がこの場にとどまり口を利いたことに驚く。彼は彼女を見て言う。
 僕はたしかにあなたの言うとおり、そういう卑しい人間なんだと思う、でもそうじゃない部分もあるんだ、女の子を好きになることだってある、ちゃんと好きになってだいじにしてだいじにされたことだってある、ほんとうだよ。彼女はひらひらと手を振ってことばを残す。そんなものを見ず知らずの赤の他人に肯定してもらいたがるなんてまったく狂気の沙汰だ。それからするりと、踵を返して歩きだす。