傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

2013-01-01から1年間の記事一覧

合理と天使

入社二年目の社員に自作のマニュアルを渡したらひどく喜んで何度もお礼を言うので、私でなくって古賀さんに言ってくださいとこたえた。その人がこれ作ったんですかと訊くので、マニュアルを作ったんじゃないですけど、と私はこたえる。古賀さんは私がたとえ…

その世界を保存する

結婚退職する社員の送別会に出て、けれども部署もちがうしそんなに多くの接点があったのでもないから、一次会で手を振って別れて、親しくしている同僚ふたりと、別の場所に移動した。夜で、金曜日で、洞窟めいた細長い店の、いちばん奥のテーブルのぐるりに…

見えないなあ、聞こえないなあ

なんなの今日、「中間管理職のかなしみをつぶやく会」なの、もっと明るい話題を出そうよ、そうだ子どもとか、向井のとこ、今かわいい盛りじゃないの。かわいいとも、ものすごくかわいいとも、でもイヤイヤ期ってやつでもある、もうたいへん、正直仕事よりた…

私のおかあさん

かがんで目の高さを合わせ、おかあさんと呼びかけるとその人は振りかえり、やがて、彼女の名を呼んだ。彼女は首まで赤くして、でも泣くのはどうにか回避して、その人の手を取った。すげえなと彼は、小さくもない声で口にする。もう俺のことだってよくわかん…

世界の理不尽と暴力に関するいくらかの情報

夫が留守にするから泊まりにいらっしゃいという、浮気相手を呼ぶみたいなせりふを受けて、私はその一軒家を訪ねる。彼女は私の友人のなかで二番目に年上で、仕事の都合で知りあって数年になる。なお、いちばん年上の友人は彼女の夫で、今日は「検査入院だよ…

贅沢な労働

憤懣やるかたないのでちらし寿司を食べたいのですが、とメールを送ると、火水金OK、とだけ返信が来た。会社の近くに評判のお鮨屋さんがあって、ランチが手頃でとっても美味しい。武田さんは軽く手を挙げ、私は軽く頭を下げる。マキノさんちょっと痩せたよう…

正解を引きあてる

髪、切ったんだね、と彼は言った。その声だけを彼女は聞いた。手元の配線と目の端のガラスの反射とその外の景色と靴の中の自分の足の汗を噴きだすようすと指に触れているものの感触が、すべて同時に、くっきりと知覚された。正解を引き当てなければならない…

感情教育とその小さな爪痕

先輩がいかにも集中力が切れたそぶりでカップを持って漠然と立っているので、コーヒー冷めますよと言うと、俺もうパワポはいい、やつには飽きた、と唐突に宣言する。私も飽きたいですと小さい声で告げると、おうおう飽きろ飽きろと言う。私は立ちあがって抗…

ジェシカおばあさんの話

彼にはすぐに彼女がわかった。彼女はひらひらしたスカートを揺らし、髪を高々と結い上げて、唇は真っ赤だった。彼の周囲にそんな色の口紅を使う女の子はいなかった。みんなもっと自然な色のを塗っている。けれども自然であることなんか、彼女にとっては少し…

ある夜の世界戦争

ごめん、急に電話して。いや、暇だから取ったので、かまわないんだけど、どうしたの、宗教、もの売り、それとも失恋? なにそれ。なにって、たいして親しくもない元同級生に電話をかける三大理由、人々に伝えたいすばらしい教えがあるか、人々に参画してもら…

残滓としての病とそのための点滴

手首にメモとかするのと訊くと彼女は笑って、ああこれはね、点滴、と言った。うっすらと残ったボールペンのインクの跡。点滴、と彼女は繰りかえした。きのうちょっと具合が悪くなってね、それで点滴を打つ必要があったの。 出張から戻る途中の土曜日の改札前…

ビーバーもしくはそれに相当するもの

結婚するのだけれども、面倒なので披露宴はしない、と友人は言い、ではということで、彼女を愛する友人一同の手により、一次会なしの二次会のような場が設けられることになった。友人は人気者なのだ。 美智子がお世話になっておりますと知らない男の人が言う…

スタディ・アフェア

研修の知らせがあるとだいたい出席してるよねえ、と先輩が言う。マキノって暇なの。この先輩は先だって私のあずかる案件に突然発生した作業を夜半まで手伝ってくれた。私たちは顔を見合わせてにやりと笑い、暇なんですよと私はこたえる。いつもの仕事ばかり…

捕まえられない泥棒

待ち合わせの相手が遅れるという連絡を受けたのでコーヒーをのんで待つことにした。仕事帰りの約束にはまま起きることだ。みんなも私もそれぞれの業務を完全にコントロールすることはできないと知っているから、あんまり気にしない。私にかぎっていえば、人…

あなたの高貴な仕事

フロアのちがう部署に電話をかけると、なんだかずいぶん長いこと呼び出し音が鳴っていた。知っている声が出て、わあ、マキノさん、と言う。顔見知りの、すれ違うと用がなくてもにこにこして近寄ってきて他愛ない話を少しだけしていくような、可愛い人だった…

だめって言って

後輩はかぶと虫を観察する小学生のようにしげしげと私をながめ、マキノさんが弱ってる、とつぶやいた。なぜわかると問うと、しおらしい、と即答する。憎たらしい。 実際のところ私は弱っていた。最終局面でひっくり返された仕事のかたまりを目の前にしてすべ…

はちみつの灯りをともす

ごめん今日は飲めない、というメールを受け取って、また今度ねと私は返信する。飲めないのは酒とかコーヒーだけだと返信が返ってくる。だから行く。妊娠、と反射的に思って相手が男性であることを私は思い出す。体調の悪い人を酒場に連れていくものじゃない…

受動態の顛末

快適であることを、彼はひどく重視する。それだから一緒にいる人間にも快適を与えるべく努力する。職場の仲間たち、ときどき会う親族、一時期会う女たち。彼らにはそれぞれ固有の需要があり、彼はそれを推定する。そのうち可能ないくつかを満たす。満たせな…

客体化の結末

来いと言えば来る。来るなと言えば来ない。やさしくしてやると素直に喜ぶ。冷たくすることはない。冷たくする動機がない。放っておくことはある。忙しいとか、忘れているとか、そんなような理由で。そうすると向こうから短い連絡が入る。ご機嫌伺い、と彼女…

プレパラート・テスティング

さっきまでグラスだったものを、彼は見る。代わりを買いに行くのが面倒だと思う。それが自分の手を滑りおちた原因を、彼は把握していない。彼のてのひらの感覚はどこか遠く、それは今にはじまったことではない。のろのろと彼は破片を集める。紙の袋に入れる…

あの日チャールズ・リバーで

冷気が壁沿いにすべり落ちてくる。増えながらすべり落ちて、床にたまる。ひたひたと上昇したそれに彼女は溺れて目を覚ました。暖房の効力がまるで追いついていない。なんだって私はこんなところにいるんだろうと彼女は思う。なんだって、こんな、ひどいとこ…

今はなき王子のための

里佳子さんが会社に戻ってくるのはもちろんうれしい。うれしいけれども、復帰の打ち合わせと称して女の社員ばかり三人でようすを見にいった私たちの前で里佳子さんはなんだか、思っていたのと違うのだった。私たちは里佳子さんを案じていた。里佳子さんの夫…

逃走の作法

あけましておめでとうございますと私は言う。あけましておめでとうございますと彼女も言う。それから、生存に、とつけ足す。ほんとうにおめでたいことだねえと私は言う。私たち、生きてて、いろいろたのしくって、おめでたいねえ。Skypeの向こうの古い友人は…