三家族の大所帯で海辺の町を旅行し、帰る日のお昼に名産のウニを載せた丼を食べた。
帰宅して洗濯機を回しながら家族が言う。さすが生産地、質の良い海胆だったね。ちなみにどうやって食べた。
わたしは自分の昼の行動を思い浮かべる。通常の丼ものはおかずとごはんの配分を均等にして食べるが、海鮮丼は例外である。酢飯でない普通のごはんとあわせるとき、たいていの刺身は単体かごはん少なめのほうが美味しい。だからまずは海胆をつまみ、海胆と少量の米飯を試し、わさび多めと海胆の組みあわせにごく少量のコメを「このたびのベース」と決め、半分食べたところで、中央に落とされていたうずらの卵を慎重に拾ってミニ卵かけごはんゾーンを作成、香の物とともに気分転換ポイントとし、その後、海胆に戻った。
わたしの話を聞き、彼はおお、と嘆息した。わがベターハーフよ。さすがだ。おれもまったく同じことをした。愛をあらたにした。
うずらの卵一個であらたまるとは安い愛である。二十円くらいだ。
わたしは尋ねる。まさかあなた皆が何の疑問も持たずにうずらの卵と海胆を混ぜて食べているのを見て何か言ったのではないでしょうね。
彼はなぜかドヤ顔をする。言ってない。おれにも社会性というものがある。でも心の中では、とりあえず無批判に卵黄を載せる昨今の風潮はいかがなものかと思っていた。あとチーズのっけるやつ。安直に脂質と塩分の魔力に頼るな。無思考そのものだ。
そうだね、とわたしは言う。でもそういう考え方は、まったくもって普通じゃないんだよ。わたしたちはグラム98円の肉を調理するときも近所の居酒屋に行くときも星つきのレストランに行くときもバカみたいにものを考えてめちゃくちゃしゃべるよね。マンション買うときの決め手のひとつも食生活の豊かさだった。そんなの大半の人にしてみたら気持ち悪いんじゃないかと思う。
そうだなあ、あなた基本ユニクロで服買ってたまにアローズでしょう。それは無思考なんじゃないの。わたし学生時代におしゃれな友だちから「セレクトショップで揃えたらそこそこおしゃれにまとまるに決まってるだろう。若いうちから美意識のアウトソーシングに頼りきりになるとは何という怠惰」って言われたよ。本当だなあって思った。で、年とるまでそのまま怠惰にやってるんだけども。
彼は視線を下げる。そして言う。そうだね、おれの服装は、食い物でいえばふだん吉牛食ってたまにロイホ行く人だね。
牛丼チェーンに行ってファミリーレストランに行って買い物帰りに駅ビルで食事する人のことどう思う。
わたしは尋ねる。彼は即答する。貧しいなって思う。それから天をあおぐ。おれだ。それ、おれ。ファッションにおけるおれ。ぜんぜん貧しくない。
でもさあどうせ新宿にいるなら駅ビルじゃなくてちょっと歩いて三丁目とか地下鉄で荒木町あたりまで出たいし、池袋駅前にいたら要町あたりまで行くほうがぜったいいいじゃん。気分でいろいろ選べるしさあ。
わたしはおしゃれな友人を憑依させる。ユニクロいいよね。でもいつも無条件で同じサイズを買うのはどうかな。いま着てるそのシャツならワンサイズ下がいいよ。サイズ別に試着してから買った? あと靴下が黒なのが、うん、ちょっと、わからない。今日の組みあわせならどう考えても茶系だし、足首の見え加減を考えたらその長さじゃないよね。もっと合うアイテムを持ってるのに選ばないのはどうして。持ってるものを組み合わせるだけでしょ、お金もかからないよ。
彼は言う。うん、そういう人がいつもおれの目の前にいて思ってることぜんぶ口に出したら、おれは呼吸しかできない生き物になります。吸って吐くだけ。無思考で黒の靴下はいて、息吸って息吐いてるだけの人。
わたしはろくに映画を選ばない。わたしの好みを知っている人がすすめてくれた映画を何も考えずに観ている。映画選びにおいても「セレクトショップ」に頼りきりの無思考パーソンである。何なら大半のものごとにおいて無思考パーソンである。というか、だいたいのことに関して無思考なのではないか。
食べ物はねえ、と彼は言う。世間で「食べ物についてよく考えるのはいいことだ」「文化的なことだ」みたいな風潮があるから余計によくないんだと思うね。だからおれとかが図に乗りやすいんだよ。ちょっとでもえらそうにしたらおしゃれな人が来て頭のてっぺんからつまさきまで眺めまわして率直に意見を述べてくれるシステムがほしい。