傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

芸術家逃げ

 だから排斥用語としての「芸術家」は禁止したほうがいい。
 会社員兼美術家の友人が言う。
 わけのわからない存在をとりあえず保留するためのラベルとしての「芸術家だから」は、百歩譲ってよしとする。それは「見たことないタイプの人間に遭遇してどう振る舞っていいのかわからないからいったんこの箱に入れておきますね」という程度のものだからね。芸大出てればその種の箱に入れられる機会は飽きるほどある。彼らの九割にはたいした悪気はない。たいていは放っておいてくれるし、仲良くなれる人もいる。
 でもあんたの中学だかの同級生たちのしたことはそれとは別だ。珍獣観察がしたくて能動的にあんたを呼んでたんでしょ。なら「珍獣」と呼べ。ケモノ扱いをしますと言え。「ちゃんとした仕事」もせず親からもらった家でのうのうと暮らしているプータローがいい年して男も女もたらしこんで気持ち悪い、普通じゃないから気持ち悪い、気持ち悪いところを見せろ、と言え。本人に動物園としての同意を取り付けて入場料を払え。勝手にやるな。しかも集団で。

 もう一人の友人が歯を見せて笑う。相変わらずキレるねえ。わたしは「芸術家」扱いって楽でいいと思うけどねえ。
 あなた芸術家だったっけ。わたしは尋ねる。この人は職業デザイナーである。お金をもらうことを明瞭に意図して技術を身につけて職に就いた人である。学生時代から「アートをやりに来たのではない」と言っていた。だからわたしの認識ではこの人は芸術家ではない。
 もちろんわたしは芸術家じゃない。彼女は言う。でも「芸術家だから」は笑顔で受け取る。うちではPTA役員は夫の担当だし、学校行事でも他の女性保護者たちとはちがう格好をしている。たとえばそういうことが「芸術家だから」で済む。楽。「お母さんだから」がないのはほんとうに楽。なんなら夫が「あのおうちはダンナさんがお母さんだから」って言われる。
 でも、お母さんじゃん。美術家が言う。
 子どもの保護者じゃん。生活上も制度上も親そのものをやってるのに、そこから排斥されるのはしんどいことじゃないの。「お母さん」の枠組みを勝手に使われてそこからつまみ出されて、くやしくないの。
 そのように訊かれてデザイナーは笑う。ないない。なんならわたし、べつに「女」じゃなくてもいいくらいだから。社会でお力をお持ちのみなさんがそうおっしゃるので、そしてそれに逆らいつづけるエネルギーを持ち合わせていないので、「女だ」と言われれば「そうですか、でも好きにしますよ」と思うし、「芸術家だから」と言われれば「そうなんですね、あなたがたの中では」と思う。

 デザイナーは大人である。美術家は戦士である。わたしはそのように思う。彼女たちのことを、ほんとうに立派な人たちだと思う。
 彼女たちには彼女たちが研いできたナイフがあり、それでもってものごとを切りはなすことができる。わたしにはそのナイフがない。ナイフを作ることを怠ってきた。
 わたしは自分が「きちんとしていない」ことをどこかで後ろめたく感じている。否、きちんとできないししたくない自分を、自分としてはまったく悪いものではないと思っているが、それによって人に攻撃されたとき、きっちり怒ったり上手に受け流したりできないことを、そしてそのくせしっかり傷つきはすることを、後ろめたく思っている。
 だからできるだけ「きちんとした」人とかかわらずに生きようとしている。

 それは悪いことではないでしょう。
 デザイナーが言う。そんなのわたしがPTAに入らないのと同じでしょ。合わない相手を避けて生きることの何がいけないの。
 そうだよ。画家も言う。あんたのこと好きな人間とだけ一緒にいたらいいじゃん。

 わたしは少し笑う。そうだねと言う。
 でもほんとうは、それが悪いことだと知っている。
 わたしは、おそらくは「きちんとした」人を避けたいがために、自分がさみしくなったとき、やたらと精神が不安定で経済的にも余力のない、確実に「きちんとしていない」人間を拾ってしまう。わたしは、そうした人たちを、かわいそうでかわいいと思って欲望してしまう。わたしのその種の欲望には見下しが強く結びついている。だから彼ら彼女らはそのうち、わたしのもとからいなくなる。
 そうでない人間だと、自分のテリトリーに遊びに来てもらうのはかまわないが、自分が相手のテリトリーに入る気になれない。だから相手が望むような親密さを提供することができない。すると彼ら彼女らもそのうちわたしの前からいなくなる。
 何度も同じパターンを繰り返してようやく自覚した。
 わたしは、それを、悪いことだと思う。