傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

素直で笑顔で気がきいて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの職場にもリモートワークが導入され、出社しても顔を合わせる会議は最低限になった。飲み会はもちろんない。そのためにわたしはしばらく水木さんにつかまらずにすんでいた。
 水木さんはわたしの同期であって、とてもいい人である。やわらかな笑顔を絶やさず、細やかな気遣いをみせ、辛抱強くがんばりやで、後輩の面倒見もよい。
 でもわたしは彼女とあまりかかわりあいになりたくなかった。

 十年と少し前、わたしと彼女はともに新入社員だった。一年目はなにしろわけがわからないものである。だからたいていのことはいったん「そういうものか」と受け取って、あとで検討することにしていた。
 わたしは仕事が終わると毎晩「私的日報」と名付けたファイルをひらいて、その日に覚えたことのほか、確認検討すべきことを書き留めた。たとえば「隣の部署のお茶出しを頼まれた。要確認」というぐあいである。それからしばらくして、前回お茶出しを頼んだのと同一人物(わたしの上司ではない)がやってきて、ちょちょっと手招きし、「お茶ね」と言った。
 わたしははーいと元気よくこたえ、わたしと同じ新人の男子に「お茶出しの仕事があるんだって」と声をかけた。彼は得意げにお茶の入れ方と礼儀正しい出し方の模範演技をしてくれた。
 わたしはその後、お茶出しを命じた人(わたしの上司ではない)に呼び出され、多くの抽象的な語を費やして「あなたは社会人としてなっていない」というようなことを言われた。「水木さんのように素直で気が利く人が近くにいるんだから見習いなさい」とも。

 わたしの職場ではお茶出しは来客を迎える者がするのであり、来客に関係のない第三者にさせるのは適切でない。しかし何か理由があったのかもしれない。そこで同じシチュエーションで新人の男性に声をかけたのである。そうしたら別室に呼び出されて説教されたので、お茶出しを命じた人は「女の子にお茶を出させる」をやりたかったのだとわかった。
 わたしは新卒三年目くらいまで、そのように雑用のひとつひとつを記録し、検証し、すべきものはシステム化して不適切なものは断った。わたしの上司はわたしの本務とあわせ、雑用の明文化を評価してくれた。
 その後、わたしは産休・育休を取り、復帰した。戻った直後はだいぶ苦労したが、半年後には諸々整えて仕事を進めることができるようになった。
 複数ではなく一対一で水木さんにランチに誘われるようになったのは、育休後の仕事が落ち着いてしばらく経ったころである。

 お茶出しはいつのまにかなくなったね、今はペットボトルで出すから合理的よね。水木さんはそのように言った。そうねとわたしはこたえた。
 水木さんはそのほかの雑用の話もした。わたしが担当したことがなく、だからわたしが明文化して割り当てを決めることを上司に提案していない雑用もたくさんあるようだ。そういうのはリスト化して担当を決めるように交渉するといいですよ、とわたしはこたえた。そのほうが助かるって上司も言ってたし。

 水木さんはほほえんだ。わたしは彼女のことばを待った。水木さんは話題を変えた。そしてランチの終わりまで当たり障りのない話をした。

 その後、水木さんはわたしを何度もランチに誘った。わたしはなんとなく気が重くなり、二度に一度は断った。
 水木さんは自分の持ち帰り仕事の多さについて話をした。水木さんは直接の上司でもない者が(いまだに)何かと頼みごとをしてくることについて話した。わたしはそのすべてに対し、「わたしなら交渉します」「わたしなら断ります」と言った。水木さんは必ずほほえんで黙った。わたしはなんとなくしんどくなり、ランチの誘いに乗らなくなった。
 水木さんはある日廊下でわたしをつかまえ、「昇格するってほんとですか」と言った。わたしはうなずいた。水木さんはうつむいた。小さい小さい声で、どうして、あなたが、と言った。胸が痛くなるような声だった。
 どうして。わたしこんなにがんばっているのに。

 水木さんはわたしをがんばっていないと思っていたのだ。わたしは業務内容について交渉し、昇給について交渉し、産休育休後の復帰体制について交渉した。それは彼女にとっては「がんばり」ではない。たぶん「わがまま」に近い。
 その後、水木さんは会社を辞めた。
 彼女は交渉しない。お茶と言われればお茶を出す。笑顔でがまんする。それが彼女の世界では正しいことで、それが評価されないことが、ほんとうにつらくてたまらなかったのだろう。