傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの部下は口を利かない

 榊さんは口をきかない。そういう人なのだそうである。聴覚障害ではない。発声器官に障害があるのでもない。特定の場面、たとえば学校や会社などで口をきけなくなるのだという。榊さんは一度も口を利かないまま同じ会社の別のフロアで何年かアルバイトをして、仕事ぶりが非常によいので、正社員になってもらったのだけれど、部署の上司が転勤することになったというので、人事からわたしのところに話が来た。「口きかない部下って、受け入れてもらいにくいんですよ。でもあなた気にしないでしょ」という。会議で発言できないとなると、担当できる仕事はかぎられるが、それでもいいのだという。

 そんなわけで榊さんと面談をした。面談といっても、言語を発したのは榊さんの上司(転勤予定)と人事担当とわたしである。榊さんは音声を発しない。あいさつも無言の会釈である。そうして目をいっぱいに見開いてわたしを見ている。表情はほとんどない。ぴしりと背筋が伸びて、手以外が動かない。ときどきまたたきをする。人事の評価を見ると、頼んだ仕事のアウトプットは非常に早く、英文の書類も扱えて、資格も持っているとのことである。

 少し驚いたが、よく考えてみれば口を利かなくてもできる仕事はあるのだ。口頭で決めた内容をメールで送ったりもしている。そうして、わたしはチームのメンバーと親睦を深めたいという考えはとくにない。休暇の日程調整や業務上の相談は就業時間内でしている。榊さんの場合、そういうのもメールで送ってくるのだという。それならば、問題ないのではないか。

 そう思って榊さんにチームに入ってもらった。メンバーには簡単に説明した。全員「ふーん」という感じだった。つまりそれは、とひとりが質問した。とてもとても内気ということですか。不安感が原因ではあるらしいんだけど、内気といっていいのかはわからない、とわたしはこたえた。いや、と質問者は続けた。つまりですね、もしもその人が、非常に内気で繊細であるならば、まわりで大きい声出したり大きい音出したりするのも控えたほうがいいかなって思ったんですね。

 人事を通して榊さんに文書で尋ねてみると、たしかにとても怯えやすいが、子どものころからたくさん訓練しているので通常のオフィス環境には適応できており、音などについてメンバーに負担をかけたくない、という回答があった。なるほど、わたしは当人が口を利かないというシチュエーションしか考えていなかったが(他人の内面に疎いのだ)、気づく人は気づくものである。わたしは声が大きくて所作が雑だからできるだけびっくりさせないように気をつけようと思った。

 そうして一年少々が経過した。とくに問題はない。榊さんの仕事の範囲は限られるが、その範囲では安定して有能である。とにかく静かで、手首から先だけ動かすような独特のタイピングで大量の書類を作る。メンバーによると、ときどきランチや仕事帰りの夕飯にも加わっているらしい。一緒にどうと訊くとこっくり頷いてついて来るそうである。「榊さんはお蕎麦を一本ずつ食べます。麺がすすすと吸い込まれていくのです。無音です」ということであった。

 榊さんは無表情だが、無感情なのではない。一度だけ、小さく小さく口をひらいて、ありがとうございます、と蚊の鳴くような声を出したことがある。その後の発言を待っていたが、化粧の上からでもわかるほど顔色が真っ赤に変わって目にいっぱい涙がたまり、それから驚くべき早さで元の白くて動かない榊さんに戻った。べつに泣いてもいいんだけどなとわたしは思った。業務上のやりとりでわたしからのハラスメントがあって部下が泣いたという状況なら第三者に査問に入ってもらうが、そうではないのだ。泣くくらいなんだというのか。わたしは頻繁に手洗いに行くが、それと同じように泣きやすい人もあるのだろうと思う。他人が泣いてもわたしには関係のないことである。ぜんぜん気にならない。

 でも榊さんはたぶん「社会人なのだから絶対に会社で泣いてはいけない」と思って、ものすごい気合いを入れて涙を止めたのだと思う。そのほうが適応的ではある。適応的ではあるんだけど、なんかみんなもっとラクにやれないのかなと思う。わたしは身体をしめつける服装がとても嫌いだし、気がつくと口があいてるんだけど、会社ではちゃんとした格好をして、口があきっぱなしにならないように気をつけている。ほんとうは榊さんが好きなときにおしゃべりにトライして副作用として泣いて、その横でわたしが原始人みたいな格好で口をあけっぱなしで仕事してるんでも、いいと思うんだけど。