傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

友人が友人でなくなるただひとつの恋愛パターン

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにわたしの周囲から真っ先になくなったのが「慣例でなんとなく年に一度くらいやっていた昔なじみとの飲み会」である。ほんとうはみんなそれほどやりたくもなかったのかもしれなかった。
 もう復活することはないかなと思ったのだけれど、疫病流行から二年、なんとなくの飲み会をやってもいいのかもしれないというような空気が東京にやってきて、それでまたわたしの昔なじみから声がかかった。わたしは行くと返信した。
 わたしはなにしろ飲み会に飢えていた。先だって趣味仲間に声をかけて飲み会をやったのだけれど、ハイになっちゃうくらい楽しくて超酔っぱらった。飲み会はほんとうに楽しい。疫病前はそこまでではなかったのに、一度奪われるとこんなに恋しくなるものかと思う。それで昔なじみの集まりにも一も二もなく参加した。
 そうしたらしばらくLINEのやりとりもなかった旧友が「あの彼とは別れたの」と言った。あの彼、というのは彼氏ではない。彼には彼女がおり、旧友は二番目の人をやっていた。わたしは息をのみ、それから、そう、と言った。わたしはほっとしていた。この人は帰ってきたのだ、と思った。

 わたしがとても若かったころ、誰が誰とどんな関係を結んでいようが友人としてはどうでもいいことだと思っていた。わたしの友人知人には色恋やパートナーシップに関して極端な人が多くて、二股三股結婚離婚再婚、ひたすら振られる、ひとりの相手とくっつく離れるを繰りかえす、親密な関係を一切必要としない、などなど、ずいぶんと多彩だったけれど、色恋で人間が変わってしまったと感じたことがなかった。だから友人としては彼ら彼女らがどんな関係を持とうと、おもしろがって聞くだけだった。
 ところが二十代半ばからひとつのパターンが浮上した。恋人や結婚相手のいる人を好きになり、いわゆる浮気相手になるというものである。
 わたしはそれもいいんじゃないかと思っていた。そんなふうに誰かを好きになるなんてわたしには想像もできない。だから彼女たちはレアな大恋愛をしているんだ、と思っていた。
 でも彼女たちは(全員が女性で相手が男性だった)、なぜだか友人としてつきあいにくい相手になってしまうのだった。
 彼女たちはその相手に自分を選んでほしいと言わない。相手の都合に合わせる。相手の邪魔をしない。連絡があればすぐに応じる。家事や雑用を引き受けたりもする。そして相手は彼女たちの打ち込んでいる専門分野において彼女たちの「上」の人間である。
 「上」というのは彼女たちのことばを要約したものだ。才能のある人が好き、と彼女たちは言った。知性にすぐれる人が好き、という言い方のこともあったが、その場合も自分と異なる分野で知性を発揮している相手は対象にならないようだった。職場の上司や先輩、学生時代の先輩が典型的な相手である。
 彼女たちはわたしが若いころそう思っていたように「そんなに好きになれるのは希有なことだ」という感覚を持っている。そしてしだいにそれだけが素晴らしい恋愛で、それ以外は妥協や社会的プレッシャーの産物だというような話をしだす。このあたりでわたしは「つきあいにくいな」と感じはじめる。彼女たちはさらに、他人の社会的つながりを軽蔑しはじめる。つまらない仕事してる、「育ちが悪い」からそんな親戚がいる、職場にいいように使われて気の毒、そんな土地に住めるなんて信じられない。
 このあたりでわたしはそっと彼女たちと疎遠になる。彼女たちがどうしてそんなにも狭量になるのかわからないまま。恋愛対象がなぜ排他的信仰の対象のようになるのか理解できないまま。

 だから旧友がそこから帰ってきてくれて嬉しいと思う。今日も嬉しくて酔っぱらってしまいそうだと思う。
 わたしにはわからない。どうして特定の分野の特定の才覚だけを称揚し、自分たちの関係以外を下賤なもののように言わなければならないのか。自分の「上」の相手がセクシーに感じる人は一定数いるのだろう。才能萌えというのもきっとあるのだろう。でもどうして、その感覚のない他人を軽蔑してそれを口に出さなければいけないのだろう。わたしは彼女たちにそうじゃない話を聞かせてほしいのに。