傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしのかわいい放浪

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから長い時間が経ち、不要不急の代表格である旅行が好きな人間はだいぶ弱ってきた。わたしもそのひとりである。

 わたしが思うに旅行好きには二種類あって、きちんとしたレジャーとして旅行したい人と、遠くへ行ってふらふらすること自体をやりたくてしかたない人がある。後者は要するに放浪癖のある連中である。移動していればそれだけで薄ぼんやりと嬉しく、なんとなし元気になる。

 わたしもそのひとりだ。三日も休みがあれば、「あれやりたい、とくになにもないと言われる地方都市で駅からスタートしてひたすら地名を読んだり方言を聞いたりするやつ」と思い、それより多くの休みがあれば、「あれやりたい、東南アジアでぺろぺろのTシャツにサンダルで歩き回って屋台で名前のわからない麺をすすったりするやつ」と思う。ストレスがたまると「パリに移住して美術館の掃除をする係になる」とか「ニュージーランドで羊飼いに弟子入りする」とか「スコットランドの島で醸造所をいとなむ老人と意気投合して跡を継ぎ、ウイスキー作りに後半生をささげる」とか言い出す。負荷がかかったときの妄想がぜんぶ「遠くへ行く」なのである。

 そんな人間が疫病下における移動の制限にダメージを受けないはずがなく、わたしも旅好きの仲間たちもどんどん弱った。少しだけ移動の制限が緩和された時期があったので、それぞれが勇んで近場に行った。過去には旅行とカウントしなかったほどささやかな移動であったのに、わたしたちはおおいに喜んだ。わたしのスマートフォンには、「息がしやすくなりました」「どうしても取れなかった肩こりが治った」「眼精疲労が回復した」「道行く人々がみな頼もしく美しく見える」などといった、あやしげな健康食品の宣伝文句みたいなメッセージが次々に届いた。

 しかしわたしたちはふたたび、県境を越える移動を禁じられた。禁じるのは政府や自治体だけではない。人々が相互に監視をし、圧力をかけあっている。疫病はもはや「外から来る連中が持ち込むケガレ」である。うすうす気づいていたのだけれど、この事態はきっと何年も、どうかすると十年単位でおさまらない。わたしたちは長いあいだ、居住地に縛られて生きていくしかない。

 つまり、わたしたちはわたしたちの放浪癖をなだめる手段をもはや持たないのだ。数日の休みが決まった瞬間に航空券を押さえて「そんなところに何をしに行くの」と言われるような旅行をすることはこの先もうないのだ。世界はすっかり変わってしまったのだ。元になんか戻らないのだ。そしてわたしは世界の一部であって、だからわたし自身も元には戻れない。

 頭の中は自由だと、わたしは思っていた。しかし、空想上の放浪のイメージさえしだいに貧弱になり、解像度がどんどん下がっている。わたしは愕然とした。わたしの空想が貧しくなったことがかつてあっただろうか。空想はいつもわたしの味方で、つらいときにはよりいっそう鮮やかにわたしを包み込んでいたというのに。

 わたしはメモを手にとって考える。旅行・旅・放浪のメタファーになりうる行為を列記する。直接手に入らなくなったものにはメタファーを通してアクセスするよりほかにない。わたしはわたしの放浪をあきらめるつもりはない。かつて「そんなところに何をしに行くの。意味ないでしょ」と言われたとき、わたしは気取ってこうこたえた。「わたしのかわいい休暇は百パーセントわたしのものです。だから意味があるかどうかはわたしが決めます」。

 わたしはわたしの持って生まれたものをだいたい愛している。そのほうが生きるのが楽ちんだからである。自分の外見をだいたい好きだし、自分のことをいいやつだと思っている。放浪癖についても、だから手放すつもりはない。わたしはわたしの顔をかわいいと思うし、わたしの放浪癖だってかわいいと思っているのだ。

 そうしてわたしは文章を書きはじめた。読書はもともとするし、あれがいちばん旅に近い。でもそれだけではだめだ。わたしはもっと遠くへ行きたい。わたしのたましいを遠くにやるのは、画像や映像ではないようだった。また、書くにしてもあることをそのまま書いても、遠くには行けない感じがした。そんなわけでわたしはフィクションを書くことにした。いろいろ試してみたところ、フィクションを書いているときの感覚がもっとも旅をしているときの感覚に近いからである。