傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

旅麻薬とわたし

 遅い夏休みが取れたので外国でぼんやりすることにした。
 これは文字通り何もしないで知らないところで薄ぼんやりする遊びである。旅行は旅行なのだが、リゾートでも観光でもないので、わたしは「外国でぼんやりするやつをやってくる」と言って出かける。

 旅行趣味の人間の多くは大学生あたりでバックパッカーを経験しており、三十そこそこで一度それに飽きる。もう少し年長になってから個人旅行を繰り返す者もいて、このタイプは遅咲きのぶん少々リッチな(ゲストハウスではなくホテルに泊まるような)旅行をするのだが、たどる道はさほど変わらない。国境を越えるだけで嬉しい時期が終わると、自分のテーマを据えた旅行をしはじめるのだ。
 わたしは美術が好きなので、美術めあての旅行をしていた。人によっては自然観察であったり、グルメであったり、アウトドアスポーツであったりするのだが、要するにふだんの趣味を外国でやるのである。
 これはいつやっても楽しい。でも「旅行」としては飽きる。なぜ飽きるかといえば、「こういうものだろう」と思って行って、だいたいそのとおりになるからである。ルーブルは楽しかった、プラドも楽しかった、メトロポリタンも楽しかった、きっとバチカンも楽しいだろう。
 でもそれだけである。
 ある種の海外旅行好きは、旅でしか出ない脳内麻薬にアディクトしている。美術好きがでかい美術館に行けばそりゃ楽しい。楽しいが、「旅麻薬」はあんまり出ない。
 このようにしてある種の旅行好きは旅行キャリア十年から十数年で一度行き詰まる。

 じゃあやめたらと人は言うだろう。わたしもそう思う。でもわたしたちは旅行をやめることができない。旅麻薬が忘れられない旅行ゾンビと化す。なんでもいいからどっか行きたい。もちろん国内でもいい。住んでるところじゃなければどこでもいい。
 旅行ゾンビたちのたどる道はいくつかある。移住や二拠点生活、ワーケーションに解決を見いだす者もいる。とにかく一つところにじっとしているとだめなのだ。じっとしているくらいなら、たとえば職場のみんなが面倒がる近距離出張を引き受けるほうがずっとましなのだ。わたしは東京に住んでいるのだが、もう千葉でも神奈川でもいい。そして降りたことのないローカル線の駅で降りてうろうろ歩く。
 なかには自分の子どもや甥姪、旅行をあまりしてこなかった友人などを連れて海外に行き、彼らがフレッシュに観光しているようすをにこにこして見ている係になる者もある。「タノシイネ……ヨカッタネ……キミモコッチニオイデヨ……」と思うのだそうである。ゾンビは人間を噛んでゾンビにする。
 でもそういう相手ってたいていほどよいところで切り上げてたまの旅行をずっと楽しむんですよね。わたしたちはなぜ彼らのようでなかったのだろう。

 そのようなゾンビの一員であるところのわたしが最近やっているのが「行ったことない国に何の予定も立てずに行ってほっつき歩いてぼんやりする」やつである。幸い、まだ二十数カ国しか行っていないから、未踏の国はいっぱいある。休暇が取れるとそのなかのひとつを選ぶ。
 事前準備もじゅうぶんに楽しむのがゾンビ・スタイルである。すすれるものは全部すする。主な準備は読むことである。その国の作家の作品やその国が舞台になっている小説なんかを探して読む。昨今はいろいろな国の作品を翻訳で読むことができてありがたいことである。それから簡単な現地語を勉強する。あいさつと数、買い物のせりふ、交通機関の使い方を覚えるのだ。タブーやチップの相場といった旅行者としての振るまいも予習する。最近は何でもYouTubeに出ているようなのだが、それらの視聴は控えている。個人的には文字情報くらいが好ましい。
 わたしはモロッコで「ありがとう! ディスイズフォーユー」と元気にチップを差し出して、「すごい田舎者が来ちゃったな」みたいな感じで苦笑され、当地における洗練されたチップの渡し方を教授されたことがあるのだが、それくらいがいいのである。
 そして現地に飛び、やたらと歩き、適当な宿や適当なカフェや適当な川辺で薄ぼんやりし、停電や虫に驚き、来ている国とはまた違う国の本を読み、よくわからない草が入ったよくわからないスープなどを食し、気が向いたら観光して、気が向かなかったらせず、帰る日が来たら不承不承に帰る。
 今のところそれがいちばん旅麻薬がキマる気がする。帰ると脳の中に詰まっていた小さいゴミがぜんぶ流れ去っている感じがする。

 そんなわけでわたしはまた空港にいる。この種の旅行に飽きたときのことは、考えないようにしている。