傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

夏の山

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために子どもたちのレジャーも変化している。小学生の兄弟のいる友人夫妻に連絡してようすを聞いてみた。遠出はできないが毎週のように珍しい経験をさせてあげているらしい。「うちでもコテージを借りるから合流しないか」と打診すると、ぜひにとのことだった。それで二家族で山あいのコテージへ行くことになった。

 わたしたちには子どもがいないから、疫病前の旅行は大人二人の静かなものだった。疫病禍で在宅勤務が多くなって犬を飼い、出かけるときには犬の泊まれるところを選んで連れていくようになって、少しにぎやかになった。今回はそこに友人夫妻とその子ふたりが加わり、異例のにぎわいである。なにしろ小学三年生と一年生の元気な男の子たちだ。どれくらい元気かというと、移動するときはだいたい走っていて、家ではしょっちゅう踊りのようなしぐさをしている。四六時中トレーニングしているようなものだ。
 子どもたちの家では動物を飼っておらず、犬と触れ合うのを楽しみにしていたから、コテージに入るなり大興奮、犬もはしゃいで大騒ぎである。
 ひととおり騒いで落ち着いたところで川遊びに出かける。安全性重視でポイントを選んだので、せいぜい膝までの深さでぱちゃぱちゃ遊ぶだけだが、それでもずいぶん喜んでくれた。そのうち釣り体験を提供しようと思う。
 林道で飛んでいた虫を指して、「クワガタかカブトムシの雌だね。飛ぶとあんなふうに見える」と教えると、子どもたちはさかんにわたしをほめた。ここ数年でいちばんほめられた気がする。虫に詳しく犬を飼っていると子どもにちやほやされる。うれしい。ふだんは会社員だから生き物趣味は何の役にも立ちやしないのだが。

 晩ごはんは車で麓の蕎麦屋に行く。子どもたちが蕎麦を好きなのだ。大人は軽く済ませてコテージで酒を飲む心づもりである。蕎麦屋はなかなかの人気で、名前を書いて順番を待つ。一年生の子がわたしの書いた字を読む。た、な、べ。
 そうだよとわたしは言う。子どもは目を大きくして尋ねる。じゅんさん、たかはしじゃないの? どうして?
 「じゅんさん」はわたしのことで、高橋は友人夫妻と子どもたちの姓である。ずっと家族ぐるみのつきあいをしているから、わたしたちのことを親戚と思っていたらしい(小一だと親戚の概念は曖昧だろうけれども)。
 親戚じゃないからだよ、とわたしは言う。子どもがへんな顔をしているので、こう付け加える。仲が良い友だちなんだ。親戚じゃなくても仲良くしていいんだよ。
 むっくんは、と小一は質問を重ねる。むっくんとはわたしのパートナーのことである。むっくんはじゃあ、たなべ? 
 むっくんは「リー」。わたしはそうこたえる。たなべじゃない、と小一は言う。たなべじゃない、とわたしは言う。小三のお兄ちゃんが顔を出して、ふうふじゃないからだよ、と言う。だって、二人とも男だもん。
 小一は五秒ほどめちゃくちゃ考えている顔をして、それから飽きて走り出す。わたしは小三を見る。小三はちょっと得意げなようすで、日本でけっこんできるようになったら、むっくんとけっこんする? と訊く。ドヤ顔をするだけあって、大人っぽい発話だ。どこかの段階でわたしたちについて考えて大人に尋ねたりしたのかもわからない。
 わたしは彼に敬意を表して正直にこたえる。同性婚ができるようになっても、わたしはしたくないかな。そんなのに認めてもらえなくても、わたしたちは家族だと思っている。でもむっくんはしたいと言っていたから、できるようになったら考えるよ。
 当分はできるようにならないだろうというせりふは音声にしない。

 コテージに帰る。花火の準備をする。東京二十三区では公園で花火のできないところが多くて、わたしの居住区でも友人家族の居住区でも禁止である。それで旅行先で花火をやったら子どもがさぞ喜ぶだろうと思って専門店で買ってきた。その甲斐あって子どもたちはたいそう喜んでくれたし、大人も楽しかった。犬もあまり怖がらず、それどころか寄っていこうとするので、少し離れたところに係留した。
 子どもたちは帰宅してから花火のことを作文に書いたのだそうで、友人が写真に撮って送ってくれた。小一の作文の冒頭はこんなふうである。ぼくは、どようびの、よる、いぬのはりーと、じゅんさんと、むっくんと、はなびを、やりました。小三の書き出しはこう。ぼくは、土よう日に、家ぞくと、ともだちのじゅんさんと、むっくんと、花火をやりました。