傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

うしなわれた毛づくろいを求めて

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。わたしの仕事ではときどき要で急とみなされる業務内容があるらしく(それを判定するのは上司というより「空気」であり、とらえどころがなさすぎて、わたしには「気分」と区別がつかない)、週に二度ばかり出社している。

 社屋の中で人とすれちがう。すでに身に着いた動作で距離をとる。目だけを合わせる。わたしは目だけでほほえんでいることを伝えることができるようになった。近隣の部署には会釈がとてもうまい人(今日はテンションが高いな、今日は疲れているみたい、くらいのことがわかる)、ハンドサインであいさつをする人などがいる。わたしたちの口元がマスクでおおわれて久しい。表情がわからないと人間は不安になるので、それぞれが代替となる表現方法を身に着けているのだと思う。新しい「表情」を会得していない人はなんとなし温度が低く見える。動いているのに景色に埋め込まれているように見える。

 同僚がわたしのデスクに近づいてきた。ゆっくりと近づき、「適切な距離」を置いて立ち止まった。他人に声を出させる回数は少ないほうがいいので、「適切な距離」で止まった相手はわたしに用事があると察するようになった。近ごろはそうした相手の姿が視界の隅に入っただけで気づく。わたしがそっと立ち上がってからだの向きを変えると、同僚はしぐさだけで「お邪魔します」というような意味内容を表明した。

 同僚の用事は明後日の会議の根回しだった。必要十分な声で、同僚は話した。はい、そういうわけで原案に強い反発は予測されないのですが、できれば補助的な説明をしていただけると安心だなと、こういう次第です。

 わたしはうなずく。わたしのうなずきの種類は疫病以降飛躍的にこまかくなった。「聞いていますよ」「ふむ」「なるほど」「わかります」「賛成です」「実にまったくそのとおりだ」などなど。この同僚は眉の動かしかたがうまい。そのテクニカルな眉によって言葉数を疫病前の半数程度に削減しているのではないかと思う。

 同僚が自席に戻るとわたしはマスクを少し持ち上げて息を吸った。気分がよかったのだ。会議の根回しなんてほんとうに久しぶりだった。そんなものが禁じられる世界になるなんて誰が思っていただろう。

 根回しがうれしかったのではない。何がそんなにうれしかったのかと、自分で不審に思う。相手が好きな人とかだったらともかく、良くも悪くも普通の同僚だというのに。わたしは同僚との会話を頭の中でリピートする。たいした内容ではないと思う。重要なことではないし、感情をやりとりしているというのでもない。

 わたしを喜ばせたのは同僚その人ではなく、会話の内容でもない。わたしは他人と他愛ない話をすることに、きっと飢えていた。発話が制限される世界では、伝える意味のあること、重要なことが優先される。意味のないことや些末なことは優先順位の下のほうでひっそりと待つ。順番なんかきっと来ないのに。

 疫病前にこんなにも意味のある会話ばかりしていたことがあるだろうか。いや、ない。わたしは無駄な会話をたくさんしていた。意味のない会話をしていた。あいさつなんてその最たるものだ。ようやく梅雨があけましたね、とか。

 そういうものがわたしを安心させていたのだと思う。敵意のないこと、少なくともことばが通じることを始終示されて、それでようよう、この複雑な社会を生きてきたのだろうと思う。相手がそこにいることを認めるための意味のないことばを交わすこと。内容のないしるしを交換するようなこと。毛づくろい的なコミュニケーション。

 それは戻ってこない、とわたしは思う。少なくとも年単位で戻ってこない。もしかするとずっと戻ってこないのかもしれない。そんなぜいたくは同居している家族にだけしかできなくなるのかもしれない。

 電車に乗る。電車の中で突然誰かが話しはじめる。そういう症状の持ち主なのかもわからないと思う。彼のまわりから人が引き、そのぶん人と人とのあいだが詰まった。誰も誰とも目を合わせなかった。わたしも合わせなかった。かなしかった。声をかけたかった。人と間隔を詰めざるをえないとき、失礼、と声をかける、そういう者のままでありたかった。わたしはさみしかった。もうすぐ家に着くのに、家に着いたら家族がいるのに、わたしは彼らと仲がよくてたくさん話すことができるのに、それでもとても、さみしかった。