傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

わたしの必要としていた家族

  疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。高校生の娘の通う高校も自宅学習になり、受験はどうするのかと心配していた。すると娘はけろりとして、わたしもともと自習タイプだから、と言う。なんでも校外学習でどんな学習のしかたが自分に合っているかを考えるワークショップだかなんだかに出たことがあるのだそうである。

 暗示のききやすい年頃だということを差し引いてもたしかに娘はひとりで本を読んだり教育アプリで勉強したりしている。経費のかからぬ子である。小さいころは何を習わせてもどんなタイプの塾に入れても続かなかった。何もしたいことがなく勉強も嫌いなのかと妻は言い、ずいぶんと案じていた。しかしそういうわけではなく、要するに大勢の仲間と一緒に何かを習うのがあまり好きではないようなのだった。

 そのような娘は学校が長期間なくなってもけろりとしている。平気かと訊くとまあ平気だと言う。それから少し考え深げにして、でもちょっと飽きた、と言う。ねえわたし多摩の家に行きたいな。わたしひとりでだめなら、お母さんと二人でさ。この家に四人でいても煮詰まるだけでしょ。寝に帰る生活ならともかく、四六時中一緒にいるとさ、わたしの受験勉強に差し障ると思うんだよね。

 娘の言う多摩の家というのは妻の両親が住んでいた郊外の家で、現在は空き家である。新興住宅地からも遠い山がちの場所にあり、自然が豊かだ。徒歩圏内にかろうじてスーパーマーケットがあるが、あとはなにもない。

 しかし今は都心にいようが子どもの学校の近くにいようが「なにもない」のと同じことである。不要不急の外出ができないのだから。わたしは隔日出社だが、妻はフルリモートである。フルリモートならなおさら場所に意味はないのかもしれなかった。

 不要不急の外出をしてはいけないが、都内の持ち家に移動することは不可能ではない。娘は「だってあの家はお母さんのものなんだから『自宅』じゃん」と強弁してほんとうに行ってしまった。ひとりで置いておくわけにはもちろんいかないので妻も行った。

 中学生の息子とわたしが残された。わたしは四十代の男としてはまずまず家のことができる人間である。息子も自分の身のまわりのことくらいはする。食事は簡単なものなら自分たちでまかなえるし、近隣に持ち帰りもデリバリーもある。妻がときどき戻ってきて作り置きもしてくれる。

 わたしは毎朝七時に起床する。日課のジョギングをする。息子に声をかける。自宅で仕事をする日はかつて寝室だった部屋を使う。昼休みにリビングに出て行く。息子のぶんと二人前少々(中学生の男の子というのは実によく食べる)を簡単に作るなりデリバリーを頼むなりする。食べる。息子と一緒のときもあればそうでないときもある。仕事に戻る。晩も同じように食事をする。眠る。酒はもともとつきあいでしか飲まない。

 わたしは娘をかわいいと思っていた。今でも思っている。けれども娘ははじめからどこか遠かった。口をききはじめて数年もすると、早くもわたしとはずいぶんとタイプの違う人間であるように思われた。

 わたしは妻とはまだ若いころからある程度ドライな関係で、それを良しとしていた。ふたりとも情熱的なタイプではない。結婚する前からそうだった。そういうところが気が合うと思っていた。

 息子はまだ子どもだから面倒を見てやらなければならないし、勉強をしているかちゃんと監視しなければならない。それは親の義務である。妻も帰るたびにそうしていて、今のところ問題はないようだと言っていた。

 わたしは家庭を持つことを当たり前だと思っていた。家庭を持ってよかったと思っていたし、その維持のために労力を払い、自分自身を変えてもきたつもりだった。しかしこのように家庭が物理的にふたつに分割されてみると、さほどの痛痒もないのだった。そしてわたしはどうやら息子に対しても強い情緒的な結びつきのようなものを感じていないようだった。

 正直なところわたしはほっとしていないのではなかった。わたしは自分が家庭を持っていることを自明としていた。「そういうもの」として会社員をやり、夫をやり、父をやっていた。とくに不満はなかった。しかし満足でもなかった。

 いま、出社は半ば免除され、妻と娘は別の家に住んでいる。つまりわたしは今までのまともな男としての体裁は維持したまま、半分はその外側にいる。わたしはほんとうは、死ぬまでこんなふうならいいと、どこかで思っている。わたしは大人になってはじめて、生活に満足しているのかもしれない。