傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

ステイ、ホーム、ステイ

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。そのためにわたしは血眼で自宅にいながらしてできる賭けを探している。

 公営ギャンブルや商業的なギャンブルはやらない。わたしにはそれほどおもしろく感じられないからだ。小銭を賭けて胴元に一定額を巻き上げられながら勝つの負けるのと言ったってしょうがないと思う。娯楽としてやる人はそれでいいのだろうが、わたしの賭けは娯楽ではない。人生の必須栄養素である。

 わたしは人様に金融商品をすすめる仕事をしている。すすめた銘柄が上がればわたしの勝ちである。確実に上がることなどない。本質的には根拠がない。ないからいいのだ。わたしは会社のカネで賭けごとをやれるから仕事をしているのである。一部の顧客や上司からは「果敢なリスクテイカー」として過分な評価を得ているが、正常なリスクテイカーは「やむをえないと考えてリスクを取る判断力と度胸がある」というような人種だろう。わたしはそうではない。「リスクを取りたくてしょうがない」のである。人知を尽くした、その膨大な労力の上でころがすサイコロ。舌の裏から甘いような苦いような味がして視界がいつもより広く、白くなり、頭が最大限に稼働したあとにこころよく停止する、あの感じ。

 わたしは勝つことが好きなのではない。勝つかどうかわからない状態でベットするのが好きなのである。それがなくては生きていかれないのだ。どうしてか知らない。たぶん生まれつきである。

 友人のなかには疫病以来の生活の静けさと変化のすくなさを愛し、「病気はなくなってほしいけど、個人的にはずっとステイホームしていたい」と言う者がある。信じられない。わたしはホームにステイできない。ていうかホームにいたくない。あんなの棺桶じゃん。わたしはシングルマザーで(子どもとかぜったい意味わからなくて思い通りにならなくて賭けの連続にちがいないと思ってそこらへんでこしらえてきた。実際のところ育児は超スリリングでわたしを思い切りふりまわしてくれたので、産んでよかった)、娘が持ち込む変化があるからまだましだが、そうでなければ家なんぞ棺桶である。せめてベッドと言いなよ、と娘は言う。そして得意のせりふをはく。ママ、ハウス。

 娘は十六である。そうしてその年齢にして自分の母親をしつけのなっていない犬みたいなものだと思っているのである。落ち着きがなく、刺激を欲し、河原に放すとどこまでも走って行く犬。首輪をつけた者がしつけた決まりごと(「待て」「ハウス」くらいのやつ。職業人としてのふるまいとか)はどうにか守る。そうでなかったらとうに死んでいる。というか、中年になるまで死ななかっただけで「賭けに勝ってきた」といってもいい。わたしはその程度の生き物だというのが娘の理解で、わたしはそれをわりと正しいと思っている。

 娘はこの世でわたしに首輪をつけることができる数名のうちのひとりだが、いくら娘に言われても「ハウス」には限度がある。永遠にハウスだかホームだかにステイしている犬はいない。今のところ仕事でのギャンブル(社会的にはまったくギャンブルではないのだが、わたしにとってはそれ以外のなにものでもない)の刺激でどうにか健康を保っているが、私生活での刺激がない状態がこれ以上続いたら早晩「わああああ」と叫びながら往来を走るのではないか。往来を走った結果は目に見えており賭けとしておもしろくないからやらないが。

 不確定要素。わたしは不確定要素がほしい。確定しているなんて、おそろしいことだと思う。いろんな人がだいじにする「安定」というものの価値を、わたしはほとんど感じることができない。たぶん「安定すると死ににくいから良い」という価値観なんだと思うけど、ぜんぜん動かなかったらそれはそれで死んでいるのと変わらないのではないか。生とは動であり、変化であり、未知ではないのか。

 きれいに言うとそういうことである。そういう人間にとって、「他人に疫病をうつさないようじっとしていろ」という通達が長いこと有効である今の社会は、完全なる逆境である。

 わたしは娘に言う。ねえ、あんたの進学費用ね、もう自分で管理できるよね。あげるわ。大学出るまでの生活費もあげる。このマンションもあげましょう。あげたあとも住まわせてくれるならだけど。

 娘は言う。なるほど、親としてのつとめは果たしたから、全財産を投じて賭けをやりたいと、こういうわけか。会社でも作りたい?

 わたしは架空のしっぽを振る。わたしは貯蓄が増えてもぜんぜんうれしくない。消費もそんなに好きではない。そんなものより「明日をも知れない」状態がほしい。