傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

やわらかな指を待つ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。化粧品を買う行為はどうやらよぶんとよぶんでないものの中間と見なされているらしく、百貨店では買えないがドラッグストアでは買える。誰がその要不要の境界線を決めているのかは知らない。

 わたしは化粧について特段の意見を持たない。というより、持ちたくないのだと思う。わたしは少女のころから女性たちの手で化粧品を選んでもらうのが好きだった。色つきリップとつや消しのおしろいにはじまり、そのときどきの財布の中身にふさわしい商品を女たちに選んでもらって生きてきた。

 わたしは基本的に能動を好む。人生のごく最初のころからさまざまなことを自分で決めたいと思ったし、実際にそうしてきた。進路、職業、住居、友人、伴侶や家族、趣味ーー思いつくかぎりほとんどすべての人生の要素を、自分で選んだ。そういうのが好きなのである。

 選択肢がたまたま与えられることはあっても、それを選ぶか選ばないかは自分で決めた。どうしてかは知らない。生まれつきの性格なのだと思う。選ばれるとか愛されるとか、そういうのを重要視する人が多いことは知っていたけれど、個人的にあんまり興味を持てなかった。わたしが選びわたしが愛することがまずあって、その対象から選択や愛を返してもらえたら、よりよい。能動、選択、攻守交代、提案、開拓、廃棄、決断。そんな人生。

 だから日々の装いも自分で決めてきた。少女のころは制服が嫌いで、早く自分の着る服を毎朝選んで着たいものだと思っていた。自分に似合う服装を考えるのが好きだったし、買ったものを組み合わせるのも好きだった。今はちょっと面倒になって、制服に相当する仕事着を季節ごとに決め、休日に遊びの服を着る。鞄と靴にはそのときどきの収入に応じて予算を多めにかけ、じっくり選ぶ。

 しかし化粧品においてはそうではない。わたしは友人たちとファッションビルに行く。友人たちはくちびるの色を染めるティントだの、わたしの肌の色に合った化粧下地だの、眉用のマスカラだのを薦めてくれる。彼女たちは「今はこういうのを使うの」「塗り方はこうするの」「これが流行のニュアンスなの」と言う。わたしは感心して言われたとおりにする。

 わたしは毎年美容部員さんのいる百貨店のカウンターに行く。そうしてまぶたの色を変えてもらって、そのままセットで買う。なじみの美容師さんのすすめるヘアオイルを髪に揉み込んでもらって、それを買う。旅行先で知り合った女性と一緒に現地のドラッグストアに行ってスキンケアのトラベルセットを選んでもらったこともあった。わたしに化粧品の話をする女たちはみんな物知りで親切なのだった。

 わたしは女たちの指先に向かって無防備に顔を差し出す。わたしは主体性を放棄する。どうしてか、そのときだけは、受動的であることがこころよく感じられる。わたしは安心しきっている。女たちはわたしの顔を決して悪いようにしない。というかわたしは自分の顔の詳細があんまり気にならない。おおむね良いと思う。それだから何を塗られても「いいねえ」と言う。変化があると楽しいと思う。

 今はそういうのはない。あるのは彼女たちのやわらかな指の記憶だけである。わたしが自分で自分に化粧をほどこすのはその甘やかな指の動きの擬似的な再現でしかない。わたしはだから、疫病が流行してから、化粧品を買っていない。これからも買う気はない。幾人ものやさしい女たちにかまってもらいながら買うのではない化粧品に、いったいなんの意味があるのか。

 疫病の流行で人間と人間の接触が強く制限されている。だから誰もわたしの顔にきれいな色を塗ってくれない。今やわたしたちの世界における皮膚接触の機会はきわめて貴重であり、そのような目的でおこなうものではないからだ。女たちは定められた距離を置いて、多くの場合はモニタの向こうから、わたしに接する。その指がわたしに届くことはない。

 化粧品はたいてい量が多すぎるものである。ことに色をつけるものはとても多い。わたしはそれを使い切ったためしがなかった。その前に女たちがわたしの顔を更新してくれたからだ。でもそれはなくなった。

 わたしはきらきらした粉を薬指で掬う。その指でまぶたに触れる。わたしはいつか誰かがつくってくれた顔になる。残像の顔。いつかこの粉が尽きたら、わたしのメイクアップは終わる。