傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

そして、どこへも行かない

 疫病が流行しているので不要不急の外出が禁じられた。わたしは病人である。けれども流行している疫病ではない。もっとよくある病気だ。国民の死因の三割を占めているほどである。罹ればすぐに死ぬのではない。わたしの場合もすぐに死ぬのではない。一度長期の治療を受けており、次にこういう症状が出たらぜったいにもう一度入院してもらいます、と医者から言われて、自宅での生活に戻った。

 おそらく遠からず死ぬような状態ではあって、そのわりに年齢は若いといえる範囲だけれど、わたしはそれほど強く嘆き悲しみはしなかった。驚いたが、どちらかといえば死ぬことより治療の苦しいことのほうが怖かった。

 長期の治療から戻って半年ばかり、家族の協力のもと、自宅で生活している。仕事は完全には辞めていない。遠からず死ぬのに辞めたくないほど仕事好きだったのではない。することがなくなるのもどうかと思って事情を説明して正社員を辞した上でアルバイトをしたいと上司に相談したら、たいへん親切に業務調整をした上で雇用形態を変えてくれたのである。いつでも戻れるように、とも言ってくれた。

 家族や友人たちや職場に惜しんでもらえたら自分も死にたくなくなるのではないかと思っていた。でもあまりそういう気分にはならなかった。もしかするとわたしはいじけていたのかもしれなかった。どうして自分だけが平均寿命よりずっと前に死ななくてはいけないのかと。そして当分死ななくていいように見える彼らを少し嫌いになり、彼らのことばを心に入れないようにしていたのかもしれなかった。

 わたしの死はどうにもぼんやりして切迫していないのだった。治療が苦しいほうがよほど生々しく、いやなのはただそのことで、死というものはいっこうにわたしの前に姿を見せないのだった。なぜだろう。遠からず死ぬのに。

 そう思っていたら疫病が流行した。世界は感染に怯え、人がたくさん死んだ。都市が封鎖され、人々は出歩くこともできず、テレビをつければいつも、大きな地震の直後に見たような、画面の外側をふちどる枠線があって、そこに常時疫病の情報が示されていた。地震のときにはじきに消えたものがずっと出ていることが否応なしに災害の大きさを感じさせた。

 そのくせ外はただの美しい春、美しい初夏なのだった。川沿いの道には菜の花が咲き、ガクアジサイが咲いて、そこをのんびりと歩く人々さえいるのだった。わたしもよく歩いた。奇妙な災害だ、とわたしは思った。凄惨な部分が目に入らない、透明な災禍。

 わたしの生活は変わらなかった。ろくに出歩けず、病に怯え、死に直面する、そういう状態を、ひとあし先に済ませていたからである。予行演習、とわたしは言った。予行演習しておいたんだよ。家の中だってそういう生活のために整えてある。リモート見舞いまで受けているし、最先端だよ。家族や友人はそれを聞いてマスクやモニタの向こうで笑った。何にもさえぎられない笑顔をわたしはこの先見ることがないのだろうと思った。

 三日前から疫病のようにも持病のようにもとれる症状が出ている。どうやら小康状態に戻ることはなさそうだ。そしてわたしは病院に行くつもりはない。

 わたしの居住する自治体では疫病で死んだ人間の属性と場所を公表する。わたしが疫病で死んだら確実にわたしだと特定される。そういう土地柄なのだ。そして疫病の感染者を出した家の者を苛み、排斥する。「感染源」が悪であるかのように。そうすれば自分たちが疫病から守られるのだとでもいうように。

 だからといってわたしは家族のために疫病でないふりをしているのでもなかった。そもそも家で死んだら死因の特定をされること必須である。疫病で死んだらどうしたってばれるのだ。ーー「ばれる」。罹患は罪ではないのに後ろめたく思わせることもまた、この災禍の奇怪なところである。

 わたしは誰かのために死因を隠したくて病院に行かないのではない。わたしは死にたいのでもない。もちろん生きていたいと思う。けれどもわたしは遠からず死ぬ。わたしは長い「予行演習」でそのことをきっと理解してしまったのだ。そうしてわたしは自分の死因を決めたくないのだ。自分が疫病であったら死ぬ間際まであれこれ言われて残された者の迫害を心配しなければならない。そんなのは面倒でかなわない。わたしはそんなのはなしにして、なんだかよくわからないうちにぽろりといなくなりたい。わたしはとても、疲れてしまった。