傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

子育てを終える

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。

 産んでもいない子を育て上げたような気がしていた。彼らがもうずいぶんと大きくなったので、もういいやと思った。疫病が流行した、この春のことである。

 もちろんそれはわたしの子ではなく、わたしはいまだ二十代で、子どもたちは十七と十五の女の子と男の子で、わたしの弟妹である。

 わたしの母は十代でわたしを産んだ。十代の母としてはずいぶんと立派だったと思う。彼女はわたしを背負ったまま手に職をつけ、同じく手に職をつけていた若い夫であるわたしの父とともに、せいいっぱい働いた。

 彼らはわたしが十三の時に、乳幼児だった弟妹を残して死んだ。ばかだなとわたしは思った。夫婦そろってさんざっぱら働いてようよう手に入れた店で火事を出して、それで死んだ。火が出たらとっとと逃げたらいいのに、店を守ろうとしたのだと聞いた。わたしは警察に呼ばれて両親を確認した。両親を、ばかだなと思った。

 わたしは長女だったから弟妹を育てた。店は繁盛していたから別の店をやっている親戚が経営を引き受けて建て直した。お涙頂戴のお話がそこにはついていて、それは商品に箔をつけた。だからわたしはそこで働いたし、弟妹を連れて、「お手伝い」をさせた。そういうのは客に受けた。つまりカネになった。親戚からもらう、わたしたちの生活費や学費に。

 店と家はさほど遠くはなかったけれど、敷地内ではなかった。幼年の者には永遠に思われるほどの隔たりが、そこにはあった。

 父と母は愛だかなんだかを信じて子をごろごろ産み、この世を生きるためのこまかいきまりを知らなかった。彼らは善良ではあった。善良ではあったけれど、長女のわたしが子どものくせに異様に的確に弟妹の面倒を見ていることを問題視するほどのよぶんな知識はなかった。彼らはただ仕事帰りや寝起きの時間にわたしを猫かわいがりし、お姉ちゃんは良い子だねえお姉ちゃんもまだ甘えたいのだろうにねえごめんねごめんねありがとうねえと言った。

 ごくたまの休日には、べっとりと隈をはりつけた顔でからだを引きずり起こし、お姉ちゃんとお父さんだけでお出かけをしよう、と言った。お姉ちゃんとお母さんだけでね、みんなには内緒よ、と言った。父は、あるいは母は、わたしの手を引き、銀座やら上野やらに出て、些細な娯楽を提供した。わたしはそのときの写真を、今でも何枚か、捨てずにとってある。両親はそうしてほどなく、ふたりして死んだ。

 わたしは彼らを、嫌いではなかった。でもわたしは彼らがわたしたちにそうしたように(たとえば弟妹に)絶対の愛を手向けることもできなかった。だって、両親は、死んだじゃないか。きれいな死体さえ残してくれなかったじゃないか。

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。不要不急の外出が禁じられた。潰れる、とわたしは思った。両親が遺した店はきっと潰れる。あんな、ちいさな店、あっというまになくなる。

 幸いにも弟妹は高校生である。わたしの子育てはほとんど終わったようなものだ。わたしは彼らを呼び、店を閉める、と宣言した。彼らはふたりしてもっともらしい不服を述べた。わたしは笑った。健全な高校生の、まっとうな被保護者の、子ども時代をしっかり過ごして育った弟妹の、感傷的な不服。

 わたしは弟妹に言う。そうしたら、おとうさんとおかあさんのお店は、あなたたちにあげよう。お姉ちゃんは、もう、無理なの。お姉ちゃん、もう、あなたがたの保護者も、お父さんとお母さんのお店の仕事も、できなくなっちゃった。なんでかっていうとね、お姉ちゃんは、ほんとは、お父さんのこともお母さんのことも、だいっきらいだからだよ。

 わたしは店舗の受けうるかぎりの休業補償を申請する。親戚連中にカネを渡す。弟妹が商売をする上で力になってくれそうな人たちに頭を下げてまわる。

 疫病が流行しているので、小さな商店の先行きはみな暗い。だからわたしのしたことは基本的に無意味だ。

 わたしは弟妹が高校を出るまでの生活費として溜め込んだ預金通帳を金庫に入れ、その使いかたを弟妹に宛てた手紙に記す。自分の荷物をまとめる。父がわたしを山に連れて行ったときに使ったバックパックにみんな入るので可笑しかった。わたしはわたしの人生において、それだけのものしか、ついに持つことがなかったのだ。

 わたしはバックパックを背負って東京を出る。その先のことは考えていない。次の駅で警察に止められるかもしれない。「不要不急の外出」をしてはならないから。わたしはそのことを想像する。そうして少し愉快になって、笑う。