傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

自己理解を買う

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために去年は顔を新しくしに行かなかった。わたしは化粧品を買うなら百貨店でやさしいビューティーアドバイザーさんに商品を選んでもらってそれを肌に塗ってもらって、いいですねえと言い合って、それを買うのでなければいやなのだ。
 わたしは毎年年末にそれをやる。そしてそのときに買った化粧品一式で一年を過ごす。わたしには化粧のバリエーションに対する欲求がない。いい顔を作ってもらって一年間それをやる。
 去年は疫病のためにコスメカウンターのタッチアップが禁じられていたから、必然的にわたしのメイクセットは二年間使用された。わたしは憮然としてファンデーションとマスカラを買い足した(マスカラ以外のポイントメイク用品は二年くらい使ってもなくならない。使っていいかどうかは知らないが)。二年くらい同じ顔でも、まあかまいやしない。かまいやしないが、いくらなんでもちょっと飽きる。
 今年は疫病の流行が一段落し、一部のタッチアップが再開された。もちろん疫病以前よりずっと手間がかかるし、制限も多い。それでもわたしは行くことにした。

 ファッションは自己表現である、そしてそれ以前に自己理解である、と友人が言う。だからメイクの丸投げはよくないと思うけど、あなたのはまあ、いいか。要するに化粧するのはいやじゃないけど、顔の細かいところがよくわかんないんだもんな。あんまり関心も持てない。じゃあしょうがない。その他の部分で自己理解をするといい。他の部分ではよく自己を理解していると思いますよ、あなたは。
 うん、とわたしは言う。わたしはわがままで、苦手分野で努力して顔面に関する理解を構築するのは面倒だし、いくつかの型に自分をあてはめるセミオーダーみたいなのも好きじゃない。「誰それみたいになりたい」というのもない。なぜならわたしはその人ではないから。
 わたしは友人に尋ねる。いま東京でいちばんかっこいいポイントメイク一式を売ってくれるブランドはどこだい。彼女はこたえる。わたしはそれをメモする。
 わたしは電車に乗る。百貨店に行く。コスメカウンターでカウンセリング希望の順番に入れてもらう。席があくのを待っているあいだ、担当についてくれたビューティーアドバイザーの女性と話す。今日はポイントメイクぜんぶ買おうと思って来ました。ほら今、薄いピンクとか使った、ぜんたいに色の強くないアイメイクがあるでしょう、ああいうのやりたいと思って。職場はうるさくないのでちょっと冒険したアイテムでもだいじょうぶです。
 これだけ薄ぼんやりしたオーダーをすると「この人はメイクの詳細について何も考えていないし、少し考えても理解できないのだな」という事実が明瞭に伝わるようである。そしてそういう人間に対して、彼女たちはやさしい。わたしはコスメカウンターでいやな思いをしたことが一度もない。年に一度しか買わないし、お金をたくさん落とすのでもないのに。
 「お肌悩みはなさそうですね」と言われて「ないです」と言う(できものがあるとかでなければ、だいたい同じに見えるから、悩みというのはない)。「この中ではおそらく、こちらがもっともお似合いです」と言われれば「そうなんだろうなあ」と思う。薄いピンクのアイカラーを四つ出されてほとんど区別がつかなかったことは言わない。左右のまぶたと眉にほんの少しずつちがう色を乗せられ、「どちらも素敵です。わたしとしてはこちらのほうが好きです」と言われて、そうかあと思う。できあがった自分の顔を見て「わあかわいい」と言う。ほんとうにかわいい顔ができたなあと思う。
 化粧のことを考えるのは年末に一式買うとき、すなわち一年に一度だ。だから忘れていたのだけれど、年末のこの行事がなかったことが、わたしはやっぱりさみしかったのだろう。わたしはわたしの顔に関する自己理解を買うのが、きっと好きなのだろう。

 新宿伊勢丹で自己理解を買う。自分にとって重要でない部分の自分に関する理解を買う。わたしのそのような年末の習慣は、疫病よりずっと前に作られた。人が人に触ることに何の制限もなく、コスメカウンターで誰もマスクをしていなかったから、わたしはそれを十全に楽しむことができた。もしもわたしが「化粧品は人に選んでもらうのがいい」と思ったときすでに疫病がやってきていたら、わたしはいったいどうしただろう。