傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

牛尾の気持ち

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのためにリモートワークが定着してしばらく経つ。わたしの勤務先では四月だけほぼフル出社、平素はほぼフルリモートである。
 今の新人はリモートワーク以降に入社した。直接顔を合わせる機会が少ないので、うるさいだろうなと思いながらも新入社員によく(リモートでも)声かけをするようにしてきた。するとけっこう愚痴が出る。「自分たちは疫病下の就活で損をした上、新人として得られるものも前年以前よりずっと少ない」という内容の愚痴である。それはまあそうだと思う。
 しかし彼らは彼らなりに息を抜いているようだ。「ぶっちゃけ同期とはけっこう集まって飲みに行ってますよ」と言った者もあった。わたしは「そうしなそうしな」と言える立場ではないから、いかにも日本人的なあいまいなほほえみの中に「そうしなそうしな」という意思を埋めこんだ。

 そのような新人たちの一人が思い詰めたようすで連絡してきた。辞めるの辞めないのという、そういう話である。長年の管理職経験からの個人的な見解を述べるなら、そういう人はけっこうな確率でほんとうに辞める。
 わたしの仕事には採用コストを考えて若者の退職をできるだけ防止することも含まれているのだけれど、個人の感情としてはあんまり止めたくない。より合う転職先が見つかったなら「よかったよかった」と思う。疲れたりトラブルに見舞われたりして辞めるなら、「ちゃんと決意してえらいね」と思う。あんまり引き留めないタイプの上司である。ただ話はぜんぶ聞いておきたい。リモート勤務では人間は簡単に思い詰めるし、簡単に視野が狭くなる。そんなのはわたしだってそうである。年齢が半分の新人ならどんな突拍子もないポイントに引っかかってもおかしくない。

 みんなすごくて、と彼は言った。自分、できなくて、辛いです。

 きたな、とわたしは思った。珍しいが、何度かお目にかかったことのある離職理由である。
 わたしの勤務先は業界では結構な給与水準とじゅうぶんな福利厚生となかなかのブランドイメージを誇るので、待遇が理由で同業他社転職をすることはあまりない。若者が辞めるポイントのぶっちぎり第一位は直属の上司と合わないこと、だいぶ離れて第二位は上司以外の他の社員との人間関係である。そして第二位の中には「ここにいると劣等感を感じる」というものが一定数含まれる。
 わたしはこの離職理由がどうにもわからない。わたしは所属集団の中でできるかぎり能力的に最下位近辺にいたい。だって、トクだから。
 周囲の人間の影響力は大きい。だからわたしはできるだけわたしより能力が高く、わたしより勤勉で、わたしより人格的に成熟した人にかこまれて仕事をしたい。そして彼らの影響で能力が上がったり怠け癖がなりをひそめたり内面が成長したりしたい。そこまでいかなくても「そうであるかのようなふるまい」をするヒントをいっぱいもらいたい。なぜかといったら、能力が高くて勤勉で成熟した人間みたいに振る舞うとかっこいいからである。あと、同世代で部下でもない人間の尻拭いするの超めんどくさい。みんなわたしよりできてほしい。そしてわたしにいろいろ教えてほしい。みんながすぐれていれば、わたしはトクしかしない。やったね。
 わたしがずうずうしい中年になったからそう思うのではない。高校は補欠で入学してすごく楽しかった。生まれ持った性分としてビリポジション大好きなのである。そんなだから、「まわりがすごくできるのに、自分は」という種類の劣等感についてはいっこもわからない。なんでさ。それすごく楽しくてトクな立場じゃん。交代してほしいよ。

 しかしわたしはそのせりふをぐっとこらえる。この若者はそれが苦しいからわたしに面談を申し入れているのだ。
 わたしは過去に経験したこの種のケースを思い返す。一回目は「あなたはすぐれている」と主張して失敗した。二回目は「すぐれた者を集めればほとんどの者がその中で平凡になるのは当然のことだ」と本音を述べてやはり失敗した。三回目は、えっと、そうだ、たいしたことは言っていない。イライザ作戦をやった。イライザはオウム返しをする原始的なAIである。わたしはときどきそれを職務上の面談に使う。 
 今回もそうしよう、と思う。どうもわたしは(能力で劣等しているわりに)劣等感というものがわからないので、だからたぶんイライザをやるしかないのである。