傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

推しのいない人生

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。それから二年半、メディアでフォーカスされた消費行動が「推し活」である。アイドルや演劇などの舞台をはじめとしたさまざまな趣味に熱中しお金や時間を使う人々について、おおむねポジティブな論調で報道されている。
 私の友人にも熱心に推し活をしている人がいる。新卒から二度ばかり上向きの転職をして華やかな職歴を築き、経済的に余力があり、舞台を大量に観ている。疫病下で飲食店の営業が制限されていた時期に学生時代のような家飲みが復活し、彼女の家によく集まっている。いつ行ってもおしゃれできれいな部屋だ。

 今日も今日とて彼女の部屋に集合した。ゲストは私を含む二名、学生時代から仲が良く、彼女のチケット争奪戦の協力者である。このたび非常に貴重なチケットを入手したということで、その協力のお礼に良いワインを飲ませてくれるという主旨だった。私たちはとくに主旨がなくても集まるので、半分は言い訳みたいなものである。
 私たちは仕事もバラバラ、結婚や子どもといったプライベートもバラバラ、何なら趣味もけっこうばらけているのだが、そのような差異はとくに問題にならず(むしろおもしろい)、話題も尽きない。

 四十万、と彼女は言った。今回のチケットに転売屋がつけた値段。転売屋は悪だよ、ほんとに。
 私たちは黙って頷く。彼女が手洗いに立つ。残されたふたりで顔を見合わせる。四十万、と私は言う。天引きなしの四十万、と返ってくる。二人してひっそりと、四十万は、いいなあ、とつぶやく。
 どんなに行きたい舞台だったとしても、私なら「四十万」のほうに意識が行ってしまう。実際に転売に手を染めるわけではないが(正しくないという以前に、そんな倍率の高いチケットを取ろうと思ったことがない)。
 推しってすごいものだねえ、と私は言う。戻ってきた彼女に言う。いいな。私だってそっちがよかった。

 推しのいない人生を歩んできた。
 私は年に何度か舞台を観る。映画もいくらか観る。ばかみたいな量の小説を読み、マンガを読む。でもそのどれにも「推し」はいない。
 好きな俳優がいないのではない。でも「チケットを毎回手に入れるためにはファンクラブに入ってあれしてこれして」となると、ならいいや、と思う。その程度の「好き」である。いちばん好きな小説にいたっては本を買えば読めるし、絶版でも国立国会図書館にはあるのだから、楽しむために何の熱心さもいらない。水みたく消費できる。

 結局のところ私はカネ払って芸を観たいだけの人間なのだ。
 私は、観たいものにつけられた定価以上の対価を何も支払いたくない。受け取りたいという欲望もない。ファンサービスとかファン同士の交流とかに喜びを見いだせない。私は推し活文化から見捨てられた人間なんだと思う。現代のコンテンツ消費パーティへの招待状が届かなかった人間なんだと思う。
 私だって熱狂したかった。アイドルや俳優を好きになってきゃあきゃあ言ってみたかった。私が特別に好きになるのはキラキラしてないそこらへんに落ちてる人間で、きゃあきゃあ言うようなもんではない。普通に話をする。世の中にはスターがいっぱいいて、入り口になる映像は無料で観られる世の中で、私だって芸事は好きなのに、きゃあきゃあ言う相手が見つからない。どうしてだろう。
 私はそのような話を、ぼそぼそとする。

 いいじゃん。推し活をやる友人が言う。それはそれでいいじゃん。俳優ばかりを消費することに苦言を呈する舞台人だっているよ。そういう人にとっては、「定価でチケット買って芸を観たいだけの人」は望ましい存在だよ。わたしは、推しが出てる中でも厳選した良作だけを紹介してるから、手放しにいいねと思ってくれているんだろうけど、世の中にはマジで観た後に虚無になる舞台だってあるんだからね。そういうのも観ちゃうんだよ、推しがいるという理由で。そういう側面はまったく健全じゃないとわたしは思うよ。わたしたちみたいなのばかりだと虚無舞台が増えかねないから、あなたみたいな客もいたほうがいい。
 私はしょんぼりする。私は虚無(すごい言葉である)でも観たいと思うほどの熱意が自分に発生しないことがさみしいと、そう言っているのだ。舞台文化全体にとってプラスだと言われてもあんまり慰めにはならない。
 私にもそのうち推しができないかな。未練がましく私はつぶやく。五十歳とか六十歳とかで突然さ、運命みたいに。

 友人は苦笑する。そんなことは起きないと、たぶん思っている。私の知らないその理由を、彼女はたぶん知っている。