えー、独身なんですかあ。彼氏は当然いますよね。え?意外。ていうかもったいないです。見る目ない男多いですね?鶴見さんこんなにキレイで仕事もできるのに、なんなんでしょう。だめなやつ多いからなあ。あ、もしかして鶴見さんのほうから振っちゃうんですか?でも、そろそろ、ねえ、あれじゃないですか、将来もありますし、彼氏くらいは、いてもいいですよねえ、鶴見さんまだお若いし、気軽に作るといいんじゃないかなって、私、おすすめします、生活の潤い的なあれで全然いいんで。もったいないですよ、ほんと。
私はそっと彼女を盗み見る。たまたま女三人しかいない残業の場だった。おなかがすくので夜食を電子レンジで温める。そうしているときにこの女性に話しかけられたことは、私にもあった。えー、マキノさんって、お弁当とか作るんですか。お昼食べ損ねちゃったんですか、いいですね家庭的で、ひとりでも美味しいもの食べるのってだいじですし、節約もできるから将来の心配があんまりなくなりますよねえ、私そういうの苦手で、料理はするんですけど、旦那が必要なときには作りますしそれなりに凝るんですけど、自分のためにお弁当作るほどまめじゃないんで、女子力低いんですよ。マキノさんお弁当作るなんてすごい、いいじゃないですかあ、みんな知らないんですかねえ。
私は「家庭的」にも「女子力」にも興味がない。弁当は単に残り物を詰めているだけで、まめでもなんでもない。「将来の心配がなくなる」というのはどうもよくわからないが、ほかのせりふから想像するに、小金が浮くので老後の資金も貯めることができる、という程度の意味なのかもしれない。
彼女はなぜだか、同性であるというだけで自分と価値観を共有していると思いこんでいるふしがある。たとえば「年長の独身女性はやむなく独身で経済的に不安定であり、金を貯めて老後に備える」という前提で話をする。その前提を読み取るまでわけがわからなくて往生した。わかってからは右から左に話を流して、無視と相槌のちょうど中間の態度をとりながら、鈍重な牛のように彼女から遠ざかることにしている。
彼女の発言がまったく理解できなかったころ、親しい後輩に相談したことがある。そうしたらこう言われてあっけなく腑に落ちた。後輩はすごく偉そうに断定した。マキノさん鈍いなあ、あの手の人はとにかく自分が上の立場に立つことがだいじなんで、マキノさんには「無残な高齢独身女性」でいてもらいたいんです、だから褒め言葉っぽいものを混ぜながら小馬鹿にして反応見てるんです、彼女にとって独身の指摘って悪口なんですよ、びっくりしたでしょ。でも向こうはそれが悪口になるっていう世界に住んでるんです。だからマキノさんは持ち前の鈍さを発揮してぼけっとしてるのがいちばんいいと思います。
そういう人種がほかにもいるのかと思い、なんだか暗澹とした。上とか下とかよくわからないし、そのために女子力だの家庭的だの、意味のわからない語彙を用いて人を褒めているような布をひらひら振る感受性もなんだか不気味だった。かくして私は後輩の助言どおり、彼女があらわれると鈍重な牛としてその場を通り過ぎることにしている。
そんなだから私はいつのまにか彼女のターゲットではなくなって、今日は鶴見さんが絡まれているのだった。鶴見さんは私より若いので「彼氏つくれ」になるのだろう。鶴見さんも「牛作戦」かなと思ってそっと見ると、なぜか目が合った。それから鶴見さんは彼女を正面から見据えて、言った。
私に彼氏がいなくて結婚してない理由ですか。ひとつ。私の大切な人は今年の二月十四日に首を吊って死にました。ふたつ。私はたいそうひどい家庭で育ったのでとてもじゃないけど自分の家庭なんか作る気がしません。みっつ。私のパートナーは同性で、おたがいの親戚が頑固なので渋谷区で結婚するわけにもいかず内緒にしています。よっつ。私は病気で子どもも彼氏も作れません。えっと、まだいろいろ出せますよ。どれでもお好きなもの選んでいいですよ。
彼女は完全な無表情になり、それからなぜか、彼女に絡まれたときの私そっくりのものすごくあいまいな表情を浮かべ、このうえなくあいまいなせりふを口にしながら、会話を打ち切った。なるほど、と私は思った。すべての「選択肢」はまったくの真実ではない(相互に矛盾する)けれども、まったくの嘘でもないのだろうと、なんとなく思った。自分が嫌いな人間に自己開示するなんてごめんこうむると私は思っていたけれど、嘘をまじえた冗談、のふりをした攻撃的な化合物であれば、むしろ火の粉を払うのに役立つんだな、と思った。