傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

マンガ読んで寝てろ

 お金の知識がないのは現代社会の大人として恥ずかしい。他人にそう言われて、ほほう、と思って、少し本を読んだ。そういう話をしたら、ふーん、と友人は言った。この女はどこの株を買ってどこの株を売ったら儲かるかというようなことを始終考えていて、余所の人にこれを買えあれを買えと勧める仕事をしているのである。他人を出し抜くと儲かるのでとても楽しいと言う。放っておくとずっとお金の話をしている。そんな人間を相手にお金に関する不勉強を開示するのは恥ずかしいような気もするけれど、私は彼女を数字の亡者だと思っているし(お金の亡者ではない)、彼女のほうは暇さえあればごろごろして小説やマンガを読んでいる私を生産性のないろくでなしと呼んでいる。価値観の相違は既に明らかであり、私たちの関係に悪影響を及ぼすことはない。私は率直なところを告げる。お金の勉強、超つまらなかった。もうやらなくていいよね。

 やらなくてよろしい。彼女は断定した。なぜならあんたは、資産がないし、給与も実に慎ましい。副収入もない。大雑把にいって食って寝て起きる以上の経済資本を稼ぐ機会も才能もない。そんな人間の小銭を増やしたって社会にとってはゼロと同じだ。そのうえ家計が破綻するタイプでもない。紙に字を印刷したやつをめくっていたらだいたい満足する低コストな生物だから、給与以上のお金を得る必要も実はない。だから槙野はお金の勉強をする必要がない。

 ほぼ悪口である。私に関する情報として間違っているといえる文言は含まれていないものの、どう考えても全体的に悪口である。

 ちょっとの貯金でもまじめにやったら少しは増える?そう尋ねると、増えるよ、と彼女はあっけなく言う。勉強して多少なりともリスクをとって、たとえば年間数万円とか十万円の運用益を手に入れることはできる。今はそれが可能な時期。でもそれが真実得になる人とそうでない人がいる。槙野はそのための勉強や手続きが楽しくないんだから、そのプロセスを労働と考えて時給換算したら割りに合わないと感じるよ、わたしが保証する。あんたはそのぶんの時間、ごろごろ寝て好きな小説やマンガを読んでいたらよろしい。主観的にそれは十万円よりはるかに価値のあることなんだから。

 十万円かあ、と私はつぶやく。ちょっといいな、と思う。十万円はいい。旅行とか行ける。行ってるじゃん、と彼女は指摘し、私は発言に詰まる。もう行ってる、たしかに、毎年。欲しいものだってあるよ。私がそう言うと彼女は鼻で笑い、買えないの、と訊く。欲しい物が買えないの?だいたい買えるでしょう、あとはお金じゃない何かを欲望しているでしょう、それが良いとか悪いとかじゃあ、なくて。

 彼女は口の端を引き上げて、言う。わたしは、そういうの、わかるんだ、他人が何に飢え渇いているか、細かいことまではもちろんわからないけど、それがお金で解決できるかは、わかる、経済状況は、破綻さえしていなければ、実はあまり関係がない、精神性とかもたいして関係ない、好みの問題、それからスキルの問題。槙野には両方ない、たくさんのお金を自分の幸福のために使う能力がない。

 私は反論しようとする。私だってお金はあったほうがいいと思う。思ってから、でも、一生懸命になるほどではないなあ、と思う。なんか、めんどくさいし。私がそう考えていた一秒かそこいらが過ぎると、彼女はすごく得意そうな顔で、それ見たことか、と宣言した。

 自分の得られる幸福の総量が多いほうを取るだけのことだよ。お金の勉強が楽しい、リスクを取る判断に知的興奮をおぼえる、不労所得を得たら気分がいい、こういう人はぜひ資産運用をやったらいい。いい気分で十万円入るんだからやらない手はない。あんたは同じ結果を出してもたいしていい気分にならない。そしたら十万円得てもぜんぜん得ではない。余ったカネは銀行にぶちこんで寝てろ。銀行が運用しろと言ったらよそでしますと言えばいい、彼らも商売なんだから、商売しがいのない人間にかまう暇はない。

 あのねえ、誰かがあんたに何かを勉強しろというときには、相手の思惑を考えなきゃだめだよ、ちょっとした勉強で誘導される先はだいたい誰かの商売なんだし、人がかかわっていればいるほどお金というのは間引かれていく、それを超える「利益」を出すだけの手間暇と能力があると思ったら、やる。そうじゃなかったら、やらない。いいからマンガ読んで寝てろ。

 私はそれを聞いてたいそう安心し、マンガ読んで寝た。