傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

彼の邪悪な優越

 彼はふと彼女に手を伸ばした。彼女はすぐには動かなかった。だから彼はしばらくそうした。十数秒の後に彼女はベルトコンベアに載せられた作りかけの製品みたいに円滑に彼とのあいだに距離を置いた。彼も彼女もそれぞれに狼狽をそのまま表出する習慣を持つほど平和な人格ではなかったし、接触のひとつやふたつでひどく動揺するタイプでもなかった。だから場の空気の緊張の大部分は無事に隠蔽された。彼女はけらけらと笑って、やだあ、と言った。子会社の派遣社員はセクハラし放題みたいな考えかたってよくないですよ。今っていろいろうるさいんですからあ。
 彼は彼女と一緒になって笑い(彼は常に笑われる側でなく笑う側に回る)、そうなったなら失礼しました、と言った。彼女はまた高い声で笑って、わあ私こわあい、と言った。怖い怖いと彼も言ってほほえんだ。彼女は先の笑いの残響のようにわずかに声をたててみせ、それじゃあ私、お迎えあるんで、と言って、するりと消えた。
 彼は自分が所属している企業が株式を所有する会社のひとつに出向していた。何ヶ月か前、彼は私に電話をかけてきて、部署つきの秘書が可愛いと話した。その秘書の話は少しずつ蓄積された。彼女の顔立ちが華やかで、化粧も派手だということ。職場の暗黙のドレスコードぎりぎりの短いスカートから惜しげもなく脚を出していること。仕事がひどく早いこと。新卒二年目で、でももう二十七であること。大きい声でよく笑うこと。働きながら夜学を出たこと。ほとんど必ず定時に帰って小さい息子と過ごしていること。結婚はしていないこと。
 それらの話と、話をしている彼の声の調子をあわせて考えると、彼が彼女に好意を持たれるのは時間の問題だと思っていることがわかった(彼女について彼が話すとき、私によりよくわかるのは彼女のことではなく彼のことだ)。私はひそかにそれを不当だと思っていた。なぜなら彼の予断は社会的な属性にのみ根拠を持っていたからだ。彼は多くの他人が望ましく思う経歴と属性を持っていた。私は彼の友人であり、だから私は彼の不幸よりは幸福を願うけれども、彼女が彼に簡単に好意を抱くのはなんだか癪に障った。
 そのひそかな苛立ちが今日の彼の電話で雲散霧消した。私は彼に、彼女知ってたんだねと言う。あなたは彼女に親切にしていたけれど同時に見下していた、彼女はそれを知っていた。彼女が口にしたのはいちばん穏当な部分。あなたは彼女の出た無名の学校を見下し、シングルマザーであることを見下し、派手な女であることを見下し、おそらくは経済的な後ろ盾のないことも見下していたんでしょう。あなたのつきあってる上品なお嬢さんみたいじゃないことを。
 いつの話だよと彼は言った。ちょっと前につきあってたお嬢さん、と私は訂正する。あとは合ってる?彼はため息をつき、合ってる、とこたえた。ねえそれがばれないって思うなんてどうかしてたねと私は言う。あるいはばれてもありがたがって自分のところに来ると思うなんて。あなたは人より優越することを人生の目標にしているけれど、誰もが同じ基準で他者に優越したいと思ってるわけじゃないよ。そんなのを押しつけるのは邪悪なことだよ。ばれたらそりゃあふられるよ、ははは、ざまあみろ。
 センセイは俺がセンセイを見下しててもべつにどうとも思わないだろと彼は言う。彼は私をセンセイと呼ぶ。うんべつに、と私は言う。見下しつつ頼りにしてることをあなたが自覚してるって知ってるから。そんなに深い友だちじゃないし。じゃあどうだったら傷つくんだろうと彼は質問する。彼女を傷つけたのと私は尋ねかえす。たぶんと彼は言う。うわあ最低と私は言う。うん最低だよと彼はこたえる。なんだか途方に暮れた声をしている。
 そりゃあなたを好きなら傷つきますよと私は教えてあげる。好意があって、しかもあなたに対等に扱われて人格を認められたいと思っているならね。彼女があなたを好きであなたの蔑視に気づかずにいられるほど愚かじゃなく利用できるほど狡猾でもないならただ傷つくよ。
 どうしようと彼は言う。その声音に私は驚く。どしたの、どこか痛いの。しんどい、と彼は言う。なんか、まずい、すごく。私はそれを聞いてたいそううれしくなってきゃあきゃあ騒ぐ。すてきと言う。彼は地獄のような声で死ねと言う。よく聞きなさいと私は言う。あなたはね彼女を好きなの。好きな人を傷つけたのでとてもつらい。わかりましたか。さあ早く彼女に電話しなさい、今すぐしなさい。そしてごめんなさい好きですって謝っていらっしゃい。