疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。
ああ、人がいっぱい死ぬんだ。そう思った。
わたしは平凡な人間である。当たり前に大学を出て当たり前に働いている。
そうしてわたしは退屈していた。わたしは本を読みすぎたし、人々の言うような良い場所に行きすぎた。そしてそのすべてに退屈していた。
わたしの母親は男の子が欲しくて子どもをいっぱい生んだ。四人目までぜんぶ女だった。今の若い人の言うところのガチャである。子ガチャ。
五人目にようよう男の子が生まれた。わたしが四歳のときである。
なぜそんなことをしたかといえば、母は無力で、そしてとにかく男が好きなのだ。男というものを見る目が非常に熱心で、女というものはだいたい視界から外れている。
母は父を愛していた。
それはそれは深く愛していて、よくお仕えしていていた。
母は美しい女だった。盆正月に集まる親戚はみんなそう言った。やけに鼻の高いくっきりとした二重まぶたの、「ばあさんが進駐軍に体売ってた」と陰口たたかれた、そういう顔面である。白くて肌理の細かい皮膚、細長くてまっすぐの脚とでかい胸、たっぷりとなびく髪、そうして何より、いつも笑顔でかわいい声の、美しい女。
そのほかに何もなかった女。
母にはものごとを考える能力がなかった。
わたしは七歳のときにそのことを理解した。わたしの母親はわたしの知るかぎり「えらそうでカネを持っている男に媚びる」以外のことに人生を使用したことがなかった。ものを考える能力がないと与えられたルールをそのままやるしかないんだな、とわたしは思った。
母は自分が産んだ子に対しては(だいじにだいじに育てている男の子でない、はずれくじの女でも)、多少は頭をめぐらせるヒマがあったらしく、わたしはだいぶなじられた。
あんたはお母さんをバカにしている。
母は繰り返しそう言った。わたしはほんとうに母をバカにしていたので、黙って床を拭いていた。
父はわたしをブスと呼んだ。おい、ブス。ブスがくせえな、おい。名前を呼ぶこともたまにあった。でもそれは嬉しいことではなかった。風呂で背中を流せ、簡単に言えば「脱いでちんぽしゃぶれ」という意味だからである。わたしはそんな母みたいなことはぜったいにやりたくなかったので、配膳するときも酌するときも風呂に呼ばれるときも椅子を手に取れるところに陣取っていた。ダイニングの椅子、リビングのスツール、風呂上がりに父が溺愛する祖母の座るための椅子。
椅子は軽くて手に取りやすい腰高で脚を持ってひっくり返して相手の脳天にたたき落とせば子どもが大人を殺すこともできる、非常に有用な家具である。
いつもその向こう側にいて、「娘」のくせに父親の所望する「お仕え」をやらなかったのでわたしは玄関に正座して姿見に向かって「わたしはブスです」と百回叫ぶことを毎日の義務とされた。隣家の善良な婦人に聞こえるように正しい発声を心がけた。図書館の本で読んだからわたしはわたしの両親が社会的に正しくないことも、効率的にでかい声を出す方法も、ぜんぶ知っている。
「わたしはブスです」と鏡の中の自分の顔に向かって何度言っても、わたしは平気だった。
だってわたしの顔は、わたしの母親の生き写しなのだもの。みんなこれを美人と言うのでしょう。わたしは、母親より二十七歳若いから、資源としてもっとずっと価値があるのでしょう。
わたしはそれを売らずに生きる。わたしのからだは、わたしだけのものだ。
そうやって生き延びることを目的としていたから、実際に生き延びると何もすることがない。
当たり前に十八で家出して奨学金をもらって大学を出て当たり前に働いている。本を読みすぎたし、長じては人々の言う良い場所に行きすぎた。そうしてそのすべてに順当に退屈した。
退屈したので人がいっぱい死んでいるところに行ってボランティアをしたら気持ちがよかった。
そこいらに人がごろごろ死んでいて、わたしは死んでいないから。
でもそういう災害は毎日起きてはくれない。
そのうちに疫病がやってきた。わたしはわくわくした。みんなうろたえている。みんな死にたくないって思ってる。いいね。すごくいいね。みんなかわいいよ。みんなきれいだよ。どこで人がいっぱい死んでる? わたしそこ行くね、わたし役に立つよ、ねえ、わたしお医者さんなんだよ、みんなのこと助けて助けて助けきれなくてわたし泣くの、だからねえ、みんなわたしの前で、死んで。息を詰まらせてそれでも息を吸おうとして苦しんで苦しんでそれから死んで。そしたらわたし、やっと退屈じゃなくなる。