傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

通り魔と気が荒くてしつけがなってない犬

  疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために、以前よりは近所で過ごすことが増えた。わたしは落ち着きのない人間で、疫病前は休みがあれば旅行に出ていたのである。
 疫病流行の最初の年、運動不足を解消するためにジョギングをはじめ、それがなんとなく続いていて、週に三日は家の周辺を走っている。そのエリアの中によく行くスーパーマーケットとドラッグストアがあり、たまに行くカフェがあり、最寄りの地下鉄の駅がある。
 小さな児童公園もある。夏場にはそこにある水道でばしゃばしゃ顔を洗ったりしている。今日もそこから出ようとすると、出入り口(車止めのようなものがある)に一人の男性が近づいてきた。手にスーパーマーケットの袋を提げている。
 わたしはその人をよけた。すると男はまっすぐ前を見たまま平行にからだをずらしてわたしに身を寄せ、素早く肘を突き出した。二度。そしてさっと歩を進めた。

 わたしはそういうとき、とっさに「あア?」みたいな声が出てしまう。
 正義感が強いのではない。育ちが荒いのだ。中学校がとくに荒れていて、温厚なインドア派だったわたしも「なめられたらいけない」と当たり前のように考えていた。すれ違いざまにぶつかっていやがらせをするような連中は、反撃しないともっとひどいことをするのである。世の中をなめた中学生は簡単にエスカレートする。だからわたしは黙っていなかったし、目の力を磨いて(悪い目つきを習得して)防御力を高めた。高校に進学したら誰もガンすらつけてこないことに驚いたものだ。
 そのような環境で育ったので、加害されると反射的にガラの悪い反撃をしてしまう。頭ではわかっているのだ。毅然と抗議し、場合によっては警察を呼ぶほうが適切であることを。相手をスマートフォンで撮影するといった対処だってできることを。そして、これはわたしはしたくはないのだが、一般的には自分の安全のために黙ってがまんして通り過ぎたほうがよいことを。
 でもできない。意識してやってることじゃないのだ。わたしは「あア?」のあと、「ぐらあ」みたいな音声を発した。わたしに肘鉄をした男は小走りで逃げ、振り返って「ごあっ」というような音声を発した。わたしにはわかる。あれは捨て台詞、「逃げたわけじゃねえぞ」という意味の音声である。けっ、逃げたくせに。次見かけたらタダじゃおかねえ。

 帰って夫に「このようなことがあった」と話すと、彼はため息をつき、心配だからできれば泣き寝入りしてほしい、と言った。世の中にはおかしなやつがいっぱいいるんだ、刺されたりしたらどうするんだ、泣き寝入りしてほしい。
 できないんだよとわたしは言った。もうね、反射で出ちゃうの。
 犬じゃん、と夫は言った。気が荒くてしつけがなってない犬のすることじゃん。すれ違いざまに他の犬に唸りかかってその犬に噛まれそうになって捨て台詞みたいな鳴き声出した犬、おれ見たことある。

 あのね、と夫は言う。そういう連中はあなたが抗議しなくてもそのうち勝手に破滅しますよ。近所をしょっちゅうジョギングしてる身長170センチ近いおばさんに加害するなんて、よほど追い込まれているにちがいないよ。
 そんなことは絶対にないけど、仮におれが「むしゃくしゃするから誰かを加害したい」「相手は女がいい」と思ったとしよう。理屈で考えたら、大きい駅に行く。実際、そういう動画ってでかい駅で撮られているだろう。近所ではまずやらない。特定されたら大変だ。駅より近所のほうが、被害者が警戒して通報したり人に話したりして対策する可能性が高い。しかもここは近所づきあいが密な下町ですよ。おれたちのパパ友ママ友だけで特定できるかもわからない。
 そういうこと全然計算してなくて、たぶん行きつけの、駅前のスーパーの袋を提げたままやっちゃうんだから、もうそれ以外に何のストレス解消法もないんだろうよ。でかくて元気そうな女はやめておこうとか、どうせ触るなら若い子がいいとか、そういうことすら考えていない。考えられない状態なんだと思う。ストレスがパンパンに膨れ上がって内側からそいつを食い破ってる感じ。認知症かもわからない。

 そこまで言われると、あの肘鉄男が心配になってきた。認知症を疑うような年齢には見えなかったけど、たしかにまともな振る舞いではない(わたしに言われたくはないかもしれないが)。民生委員の小諸さんとか町内会長の白井さんとかに話しておこうかしら。