傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

シンデレラボーイの妻

 夫のことをよく知らない。

 夫と知り合って十五年、結婚して十二年になる。わたしは夫の仕事の内容や給与や日常のルーティンや食べ物の好みを知っている。何に対してセンシティブで何について無関心かだいだい把握している。暇になるとすることのパターンもわかっている。小学生の息子に対する教育方針を話し合う過程で新しくわかることもある。夫婦の会話は多いほうだと思う。

 夫は繁忙期だけ帰りが遅い。この時期は夜半まで帰らない。息子が宿題の話をする。自分のルーツを知る、というような宿題が出ているのだという。ルーツ、とわたしは思う。

 そして思い出す。わたしは夫の過去を知らない。夫の親や親族に会ったことがない。夫の古い友だちに会ったこともない。それどころか新しい友だちにも。わたしは夫のことを、実は知らない。わたしと一緒にいるのではないときの、夫のことを。

 そんなことって、あるんですか。友人が言う。あるんですとわたしはこたえる。結婚前に親族とは疎遠だと聞いたので、そのうち事情を話すだろうと思ってそっとしておきました。それきり忘れていました。考えないようにしていたのかもしれない。結婚式はハワイで挙げました。招待客はわたしの親きょうだいだけです。そのあとわたしの親しい友だちも何人か紹介しています。だから夫はわたしのことを知っています。でもわたしは夫の関係者に会ったことがないんです。出身地と出身校と職歴は聞きました。それだけです。就職試験で提出するくらいの情報量ですよね、これって。

 生まれた家と疎遠な人はいます、と友人は言った。だから親族に会わせないというのは、うん、わかります。事情を話さないのも、その人の選択です。たとえ結婚相手にだって言いたくないことはあるでしょう。ふたりがよければそれでいいんです。しかしいくらなんでもほかに親しい人がいるでしょう。友だちとか、仲の良い同僚とか。会う以前に会話に出てくるでしょう、親しい人の話、するでしょう、恋人とか結婚相手に。しないんですか、彼は。

 しない。一度もしたことがない。上司の愚痴や同僚への評価は口にすることがあるけれど、親しいようすではない。夫には友だちがいないのかなと思っていた。わたしがそのように説明すると友人はちょっと黙り、悪いことではない、と言った。友だちが必要ない人もいます。しかし過去の話がゼロというのは、えっと、ちょっと、想像がつかないです、えっと、たとえば、子どものころ卵アレルギーだったとか、バスケ部だったとか、過去につきあった相手と別れたのは主に相手の浮気によるとか、大学生のときにはじめて海外旅行をしたとか、そういうのも話さないんですか。話さないということが可能なんでしょうか。

 可能なのだ。だって彼はそうしてきたのだから。わたしたちはわたしが二十四、彼が二十八のときに出会って、彼が話題にするのはその後のことばかりで、そうして十五年を過ごした。彼はわたしの昔を知っている。わたしは彼の二十八より前のことを何も知らない。

 友人が言う。彼はラッキーですね。お話を伺っていると、彼には人間関係の資産がほとんどなかった。理由はわからないけど、徹底してゼロだった感触があります。でも彼はあなたと一緒になって急にリッチになったのです。シンデレラみたいだ。

 人間関係は資産ですよと友人は言う。子育てを手伝ってくれたのは誰ですか。あなたのお母さんと、それからお父さんですよね。ああ、お兄さんとその配偶者もいろいろ良くしてくれたんですか、うん、従兄弟同士も仲がいいと。それであなたのお友だちが家に遊びに来たりもするんですよね。いろいろな話をして笑ったりする。マンションの自治会のおつきあいもあるんですよね。そういうのは、資産です。親密さは人生の資産です。なくても平気な人はいるけど、彼は平気じゃないから結婚したんでしょう。そしてあなたは彼に個人的な関係性のすべてを提供した。彼の親密な対象、彼の助け合う相手のすべてをプレゼントしたんだ。なんという玉の輿。あなたはまるでシンデレラにプロポーズした王子さまですよ。

 夫はシンデレラになりたかったんでしょうか。わたしは言う。わたしが、夫を好きになったから、わたしの都合で、親しい人間関係のある世界に引きずり込んだのじゃあないですか。ほんとうは夫は、そんなの必要なかったかもしれないじゃないですか。

 それはわからないですねえと友人は言う。シンデレラじゃなくって、かぐや姫だったとしても、もう月に帰るのもめんどくさくなってるんじゃないですか。子どももいることだし。