傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

さみしいと人はおかしくなるんだよ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。そのために人と人が会う機会があきらかに減った。わたしはそれに危機感をおぼえ、人とのコミュニケーションの場や出会いの場を工夫して増やした。
 友人が減ってもかまわない人もあるのだろうが、わたしはそうではない。若いころから意識的にさまざまな形式で親しい人をつくり(形式というのは友人とか恋人とか、そういうのです)、その人々によくするように心がけ、長期的にはそれが返ってくることを期待してやってきた。わたしにとってわたしを大切にしてくれる他者は運命のように与えられるものではなく、また一度得たらずっと持っていられるものでもなく、自分から獲得しに行き、相互に定期的にその必要性を判断するもので、だから原則として時が経てば減るものだ。

 わたしにこのような感覚が芽生えたのは十九歳のときである。それまでは環境によって人間関係を与えられるような感覚を、薄ぼんやりと持っていた。今の時代なら成人年齢だったというのに、わりと子どもだったのだろう。
 大学の夏休みに高校時代の友人たちと集まった。そのなかに非常に頭脳明晰なSがいた。高校生の時分から三カ国語を話し、あまりに成績が良いので予備校から奨学金をもらい、当然のように日本でいちばん入りにくい大学に入学した友人である。
 大学でもあなたよりできる人はそんなにいないでしょうと言うと、Sはうふふと笑い(無邪気で愛らしい人なのである)、いるよう、と小鳥のような声で言った。でもねえ、いちばんできると思ってた同級生の男の子がいなくなっちゃったの。カルト宗教につかまっちゃった。怖くなっていま本読んで勉強してる。大学一年生はよく狙われるんだってさ。

 わたしはそれまで、自分がカルト宗教や洗脳手法を用いる集団に引っかかることはないと思っていた。子どもらしい傲慢さで「わたしはそんなに愚かじゃない」と思っていたのだろう。
 でもSの同級生は、わたしが知るかぎりもっとも高性能な頭脳を持つSが「自分よりできる」と言うような人なのだ。それでもあっけなくつかまって、「たぶんもう帰ってこない」。
 どうしてそんなことになっちゃったんだろう、とわたしが言うと、Sはあっさりと、さみしいからだよ、と言った。たぶんねえ、さみしいと人間はおかしくなるんだよ。少しおかしくなったところで、その隙間にぱっとフックをかけるやり方があるんだよ。それがカルトなんだと思う。あの男の子の親御さんとか親しい人がうまく取り返してくれたらいいなって思う。
 でもねえとSは言う。悪名高いカルトでも、その子にとって以前の生活と比べて不幸かどうかなんてわたしには決められない。わたしはあの子の友だちじゃなかったし、今帰ってきたら友だちになるかといったら、ならないと思う。たいていの他人ってそうじゃん。同級生でも八割は「個人的にもっと親しくなりたい」と思わないじゃん。だからわたしにはその子のさみしさを埋めてあげる可能性がない。それでカルトはあの子をさみしくなくしてくれたんじゃないかと思う。それが最低の方法だとしても、わたしたちにできることは「そういうのがのさばらないように社会的な対策を立てよう」とかじゃん。
 だからねえとSは言う。さみしくならないように気をつけるよ。みんなも気をつけてね。

 その後の人生のなかで、わたしのまわりからも何人かがカルト的な場に引き抜かれた。それは新興宗教であったり、自己啓発団体であったり、ビジネス団体であったりした。彼らがさみしかったかどうかはわからない。けれど何かしらの不全感は持っていたように思う。そしてわたしは彼らを止められなかった。わたしは彼らの、親しい相手ではなかったから。
 明らかに搾取的な団体はいつの時代にもあって、そういうものは摘発されてほしいと思う。一方で、生活できる程度の経済力を残して搾取するようなものもあって、たとえばわたしの知人がひとりスピリチュアル系の団体に毎月十万円ほど「受講料」を払っているのだけれど、食うには困っていないようで、本人は「特別な人たちに囲まれて特別な学びを得ている」というようなことを言っている。この人と親しくないわたしは、意見できることはないように思う。だってわたしはその人に「特別な人」や「特別な学び」ーー仲間と優越感ーーを提供することはできない。

 でも自分がそうなりたいとは思わない。だからわたしはさみしくならないように気をつけている。「特別」でなくても気が済むように、「特別な人」に選ばれて褒められることを必要としないように。