これからこの女とセックスするんだと思った。これは知らない女で、今からやってカネをもらうんだと思った。そう思わなければ50センチ以内に近づくことができなかった。実際のところ、セックスなんかぜったいにする気はなかったし、その「女」は僕の母親で、その場所は僕が高校生のころまでいた、いわゆる実家で、そうして僕はこう言ったのだ。肩もんであげようか。
女親の肩を揉むことが僕には知らない女とセックスするよりはるかに大変な行為なのだった。かわいそうにね。かつて僕にカネを払ってホテルに連れ込んだ女がそう言っていた。お母さんに一度も頭を撫でてもらえなくて、かわいそうにね。でもわたしはあなたのこと嫌いだから帰るわ。
そのころ僕は大学生で、女と寝てカネを稼いでいた。僕はたいそうな大学に通っていて気が利いて顔も悪くない若い男で、だから上等だった。僕は高く売れた。女なんか簡単だった。僕みたいなのを好むタイプをフィルタリングしてまるでその女を欲しているかのように振る舞えば必要なカネが手に入った。僕は学生生活のすべてを、つまり学費と家賃と生活費と遊興費を完全に自分の稼ぎでまかなっていた。
顧客はどういうわけか比較的若い女が多かった。最初は正気かと思ったけれど、そのうち慣れた。どうやら昨今男を買うのは誰にも相手にされなくなったババアではなく、ねじまがった二十代女子であるらしかった。僕は女には内面なんか存在しないと思っているから(だって、あいつらの行動って蟻とそんなに変わんないじゃん。蟻に内面とかあるか? )、実年齢はどうでもいいんだけど、身体が若いのは助かった。若いほうがまだ見苦しくないし、だいいち、三十すぎたババアは、くせえだろ。鼻だけ息止めてやるのは手間だし。
新しい蟻がやってきたので食事に誘うと蟻は露骨にいやな顔をした。さっさとやれと言わんばかりだ。欲求不満があまりにひどい。僕は笑う。メシくらい食わせろよと思う。世も末だと思う。女というものは、いつも、こんなにも、醜い昆虫だ。僕が気の利いた会話を展開するとため息をついてきみの話は押しつけがましいと言った。失礼な蟻だった。安っぽいキャリアウーマンもどきの蟻。腹が立って頭に血が上ってやりたくなったんだけど蟻は目と鼻の間に皺を寄せて僕を押しのけてホテルの部屋の扉まで後退して後手に持ったかばんを漁ってカネを撒き、帰れ、と言った。蟻は出張でこのホテルに泊まっているから自分が帰るわけにいかないのだった。せこい。所詮は蟻だ。
僕は流暢に語った。一万円札の散った床を見ながらベッドに膝をついて腕をだらりと落としたまま延々と語った。僕の母について。僕の母が決して僕に触れなかったことについて。清潔な部屋と栄養バランスの整った食事と完全な学習環境を提供し、僕が六歳になるまで冷徹な子守を雇って、僕に一度も触れたことのない、母について。
蟻は鼻と目のあいだに皺を刻んだままティッシュペーパーにぺっとつばを吐き、僕を見たまま着衣の乱れを直して、かわいそうにね、と言った。かわいそうにね、お母さんに撫でてもらったことがなくて、でもわたしはあなたのこと嫌いだから帰るわ。ファミレスで時間つぶして東京の顧客のとこ行って新幹線で寝て帰るわ。
カーテンをあけると西新宿は早朝で、やたら光っていた。ビルばかりだからだ。ビルはガラスをいっぱい使っているから。
僕は女の取ったホテルで女の食べるはずだった朝食を平らげて大学に行った。カネはもらった。仕事、すなわちセックスあるいはそれに類する行為はしなくて済んだ。女は関西在住だそうだからもう来やしないだろう。つまり、OK。まったくOKだ。
そんなのは僕の学生時代のありふれた夜のひとつで、今どうして想起したのかと思ったら、あの蟻の女に母の話をしたからなのだった。なんで話したのかと思う。たぶん、人間っぽいことしたらエージェントにクレームがいかないと思ってやったんだと思う。
東京に両親がいるのに家出して何もかも自分でまかなって卒業してめでたく外資に就職してそのままドイツに渡って二年後に帰国した。つまり、今。
両親は完全に老人に見えた。彼らはあきらかに僕をもてあましていた。肩もんであげようか。そう言うとお願いしようかしらと母は言った。気がつくと僕は「大人になった息子の穏当な肩もみ」を終えていた。それじゃあねと僕は言った。ありがとうと母親は言った。父親は黙っていた。僕は不意に理解した。僕は二度と彼らを訪れないだろう。僕は二度と彼らを求めないだろう。僕は二度と、あの蟻たちを必要としないだろう。