傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

振り袖レンタル、誂え、スーツ

 疫病が流行しているのでよぶんな外出を控えるようにという通達が出された。成人式がよぶんかどうかは微妙なところらしかったけど(わたしの住んでいるところでも直前までやるようなことを言っていた)、感染状況がえらいことになって結局やらないことになった。
 わたしは今年新成人だから、残念かと言われれば、そりゃあ残念だ。でも泣くほど残念ではない。正直そうなるんじゃないかなという気はしていたし、地元の友達に会いたければ自分で会えばいいし、着物はまた着ればいいやと思う。振り袖一式を予約していたレンタルのお店からも、日をあらためてかまわないという連絡があった。
 母にそのことを伝えると、母はみかんを剥きながら、そしたらまたの機会にして、そのときに写真を撮りましょ、と言った。おばあちゃんも呼んで撮りましょ。成人の日だったらおばあちゃん来られなかったんだから、かえっていいかもね。
 祖母は地方都市に住んでいて、そこでは東京との行き来で感染した人がいるために、実際的な健康問題より風評を怖がって祖母は東京に来ない。わたしたちにも来るなと言う。もう少し状況が変わったら行けるから、と言う。わたしは祖母が好きだから振り袖で祖母と写真が撮れるなら成人の日に何もなくてもまあいいかなと思った。

 うちではその程度だった。要するに親もわたしも成人の儀式みたいなものにそんなに興味がないのだ。父に至っては「着物なんざ二十一でも二十五でも三十でも着りゃあいいだろう。おれも着ようかな」などと言っていた。父自身は成人式に何もしなかったらしい。
 しかしすべての二十歳がそのような状況にあるかといえば、そんなことはない。大学の友人の中には一生に一度の思い出がふいにされたと嘆いている子もいる。

 大学外の友人たちはどうだろうと思って連絡をとってみた。まずは洋子ちゃん。洋子ちゃんはわたしの幼友達で、裕福なおうちの娘だ。洋子ちゃんは振り袖のレンタルなんかしない。「おばあさまが昔着ていたものを受け継ぎたかったけれど、背丈が違いすぎるので、誂えていただくことになった」と言っていた(LINEで)。なんかこう、すごい。
 洋子ちゃんは成人式がなくなったことについてはかなり悲しんでいた。でもそれは振り袖の問題ではないみたいだった。洋子ちゃんはそもそも振り袖なんか二十歳前からばんばん着ているのだ。
 洋子ちゃんとのLINEでおもしろかったのは、「誂えてもらうのもいいけれど、やはりおばあさまやお母さまの振り袖を受け継ぐのがいちばん」という価値観がある、という話だった。洋子ちゃんいわく、「ざっくり言うとそのほうがエライみたいなところある」。洋子ちゃんはその手の価値観をよく理解しているけれど、染まりきってもいないので、成人式の衣装にまでランクをつけるなんて、品がない、とも言っていた。

 次に連絡したのは佳奈ちゃん。佳奈ちゃんはわたしの中学校の同級生だ。区立中学だったからいろんな子がいたんだけれど、佳奈ちゃんは簡単に言うとお金がないおうちの子だった。佳奈ちゃんはぶっちぎりで成績がよく、わたしの母なんかは「塾にも行かずにすごいわねえ、ああいう子がいちばんえらいわ」と感心しきりだったけれど、佳奈ちゃんが努力する子になったのは佳奈ちゃんが追い詰められていたからで、そんなのを良いと言うべきじゃないとわたしは思う。
 佳奈ちゃんもまた、振り袖のレンタルなんかしない。そんなお金はないのだ。スーツ一着で成人式も就職活動も卒業式もやっつけるのだと言う。
 成人式がなくなったのは残念かと聞くと、いやそれほど、と佳奈ちゃんは言った。でもせっかく買ったスーツだから着たかったな。入学式なんか高校の制服のスカートとセーターで出たからね。
 佳奈ちゃんに洋子ちゃんの話をして、そういうのってどう思う、と聞くと、たいへんそう、と佳奈ちゃんは言った。お母さまやらおばあさまやらの振り袖が重宝されて女ばかりが着飾る文化っていうのは、つまり、女が客体でありつづけている文化ってことじゃん、それを引き継げって言われてるようなもんじゃん、わたしだったら逃げる。

 佳奈ちゃんのことを、成人式に着物も着せてもらえないなんてかわいそう、と言う人はいるだろう。もしかしたら洋子ちゃんのこともかわいそうと言う人はいるかもしれない(家に縛られている的な意味で)。でもわたしたちはもう大人だから、かわいそうではない。式が中止になっても、かわいそうではない。成人の日の夜、わたしは晴れがましい気持ちで、祖母と写真を撮る計画を立てた。