傘をひらいて、空を

伝聞と嘘とほんとうの話。

世界に対する負債の感覚

高校生のとき、電車に乗っていて、後ろから頭をたたかれた。そんなに強い力ではなかった。驚いて何秒か動けなかった。振りかえると男性がいて、私がとにかく悪いという意味のことをまくしたて、おそらくはそれで私の頭に接触した鞄を何度か私の目の前に突きだしてから、電車を降りた。彼は視界の端に消えるまで私をしかと見つめ、非常識なのは私で、殴られて当然なのだという様子をしていた。
私はそのできごとをうまく解釈できなかった。私はそのときまで、(物理的なものにせよことばを経由したものにせよ)暴力は濃密な関係性のなかで発生するものだと思っていた。そのあとしばらくしてからも、実質的な被害がなかったことを理由に、その記憶を放っておいた。
けれどもこのところ、そのできごとが気にかかる。それで友だちに話して感想を聞いた。
彼は言う。
ただ生きているだけでおまえが悪い、と言われることはある。殴られることもある。僕はそれはある意味で当たり前のことだと思うんです。およそ誰もが誰かの規範意識や美意識に反しているからです。僕は鞄でたたかれたことはないけれど、不愉快なことばをぶつけられたことはあります。きもいとか、むかつくとか、たちが悪い、とか。
場当たり的な悪意の発露は、たいてい些末なものです。それは甘受しようと、個人的に思っています。僕と似た立場のすべての人が僕のようにすべきだとは思わない。でも僕は甘受します。
なぜなら僕はどこかでそれを欲しているからです。好き勝手やって申し訳ないと思っている、期待されるロールモデルをなぞれないことに後ろめたさを感じている、なにか代償を支払わなくてはいけないと思っている。
僕がいちばん後ろめたいのは、あなたも子どもがいないから、こんなことを言うのは気がひけるんですが、おそらく生涯独身でいて、子育てをしないことです。そのような生き方も認められるべきだと思いながら、何かを差し出さなくてはいけない気持ちもなくならない。
同時に、僕は腹を立ててもいる。どうして僕がわけのわからない連中にいやな思いをさせられなきゃいけないんだ、と思ってもいる。だから彼らのことばの粗雑さを見て、溜飲を下げるんです。こいつらは有効な傷つけかたもできない、それをする度胸もない、短慮で無能な連中なんだと。
屈折は自覚していますよ。
子育て支援の団体に寄附をするとか、子どものためのボランティアをはじめるとか、洗練された、陰気でないかたちで自分の後ろめたさをあがなったほうがいいと、近ごろは思います。そのほうが健康です。でもなぜだろう、僕がこのように生きていることの対価は、他者の暴力を受けること、そして僕自身が傷つき損なわれることでしか支払われない、そういう気がしてならないんです。小さな悪口を、いずれやってくる致命的な暴力の前兆のように感じているところが、僕にはある。
私は数秒間の沈黙を聞き、彼の話が最後まで進んだことを確認してから言う。
そんなの前兆でもなんでもないですよ、前兆にしちゃだめです、よくわかるけど絶対だめです。なんか言われたらばんばん言い返せばいいんですよ。うるせえ、おまえこそむかつくんだよ、八つ当たりしやがって、てめえに関係ねえだろ、とかって。それが正しいはずなんです。私も高校生のとき、きっとそう言うべきだったんです。相手に直接言えなくっても、なるべくすぐに、なるべくストレートに、それこそ粗雑な言いまわしで、罵倒を返すべきだったんです。