長期出張から帰ってきた人に向こうでの生活を訊くと、合宿っぽかったよと言う。一軒家をスタッフ三人でシェアして、一緒に暮らしていたのだそうだ。
部屋はひとりひとつだけれども、ほかは共有だから、朝晩顔を合わせる。もちろん仕事もおおむね一緒にやっていて、起き抜けや寝る前にも、ちょっと会う。年長のチームリーダである彼は、ほかの二人から「おとうさん」というあだ名をつけられていた。
出かける前や帰ってきたあと、彼は彼らに遭遇する。彼らは、朝は深煎りのコーヒーを、夜は氷を入れたグラスに白ワインと炭酸水を注いだものをくれて、おとうさんおはようございますとか、おつかれさまでした、とか言う。そうして自分も同じものを飲む。家庭ではないリビングダイニングの隅と隅で、彼と彼の一時的な同居人は、それぞれ静かにグラスやカップを傾ける。ときどき晩ご飯をご馳走すると、彼らは殊更無邪気に、おとうさんはやさしいなあ、と喜んだ。
彼は言う。
おとうさんであるはずがないんだよ。だって僕はせいぜい八つかそこらしか年上じゃない。彼らの保護者でもない。でも彼らはそうやって疑似的な家族を演じることで、その状況を悪くない出来事のように演出していた。本来の住処ではないところで本来の家族ではない人たちといたのに、彼らはよく笑って、おっとりと暮らしていた。利口な子たちだなと思った。利口でやさしいなって。
おとぎ話みたいだと私は思う。異国の都市の片隅の一軒家にあらわれた、お利口でやさしい、テンポラリな子どもたち。
それは愛だねえと私は言う。愛されてるね。彼は苦笑して、所詮仕事上のことだと言う。仕方なくしていることだよ。余儀ない関係だ。
個人的な関係でなければ愛と認めないなんて、おかしな話だ。仕事上の人間関係にそれなりの愛情がなかったら、ひどくつらいと思う。余儀ない間柄だからこそ、適切な距離感だとか控えめな親しみの表現だとか、日常的な思いやりだとか、そういう小さくて丈夫な愛情がないと、ひどく殺伐とするだろう。
私はそのように主張する。すると彼は軽く目を伏せて言う。そうかもしれない、でも、個人的じゃない小さな愛情を自覚するのってなんだかはずかしい、たとえば相手が恋人なら、そんなのよりよほど大仰なことばや行為をやりとりしても平気でいるのに。